南インド・茶綿の里を訪ねて
■そもそも

 
きっかけはいつもの通り、シンプルな会話であった。
 2007年の三月下旬のこと。インド行きを一週間後に控えて、ちょっと考えた。
 せっかく渡印するなら、今度は何かおもしろい木綿の糸を探してこよう!
 それを真木千秋に伝えると、案に反して、あまり乗ってこない。
 ただポツリひとこと、「茶綿ならおもしろいけど…」と言う。

 茶綿!
 それは未知の世界だ。
 私自身、昔から茶綿に関心はあった。「タイ茶綿」製の上下も持っているし、「アメリカ有機茶綿」製の越中褌も愛用している。
 しかし、インドに通い始めて早20年、素材の宝庫と言われつつ、いまだ同国産の茶綿にはお目にかかったことがない。
 パートナーであるニルーにメールを送って問い合わせてみたが、返事は返ってこない。インドの伝統的染織に通じた彼女ですら知らないようである。
 それでつらつらネットを彷徨っていると、茶綿など有色綿の世界では、アメリカのフォックスという女性研究者が有名らしい。彼女は虫害に強い有色品種を開発し、種子会社を立ち上げ、成功を収める。
 なんでも、近代的な白色綿ほど農薬を多用する農作物は他に無いらしく、土壌や農民のためにはあまりよろしくない。その点、在来種を改良した有色綿はエコロジー的な面でも優れているという。

 ところがインドで有色綿を栽培しているという具体的な話は、ネット上になかなか現れてこない。
 ただ、同国中部のナーグプルにある国立綿花研究所には、有色綿の品種がいろいろ育っているらしい。
 そこで同研究所およびその支所(北部と南部)に照会のメールを送ってみる。それとともに、ニルーの弟であるウダイにメールして同研究所とのコンタクトを依頼する。

 しかしながら、やはりどこからも返事をもらえない。そして、2007年4月1日、インドへ旅立つのであった。
 ただ、ウダイだけは、しつこく同研究所を追い回していたようだ。
 インド到着の二日後、同所の所長であるカディ博士の携帯電話番号をゲットして、ついに博士とのコンタクトに成功する。
 なんでも、南インドの某所で茶綿が栽培されており、カディ博士もたまたま4月5日から四日間、同地に滞在するという。
 某所というのはカルナタカ州ダルワード。最寄りの空港はフブリ。どちらも聞いたことのない名前だ。さていったいどんな所なのだろう。
 フブリへは新興のキングフィッシャー航空がムンバイ(ボンベイ)から便を飛ばしている。そこで4月6日、デリーからムンバイ経由でフブリまで飛ぶことにする。
 その旨をカディ博士に伝えると、ともあれ空港に着いたら電話を寄こすように言われる。

ダルワードへ

 
2007年4月6日、キングフィッシャー航空機でデリーを発つ。
 キングフィッシャーとは英語で「かわせみ」という意味だが、インドでキングフィッシャーと言ったら有名なビール会社だ。その会社が最近、航空業にも進出したのだ。だからといってビール飲み放題!!というわけではない。インド国内線内ではアルコール飲料は御法度なのだ。

 ムンバイにてプロペラ機に乗り換え、約一時間でフブリに到着。デリーから約二千km、かれこれ八時間の旅だった。
 カディ博士からは「空港に着いたら電話を」と言われたのみで、それからの行く先は定かでない。まさに茶綿同様、未知の世界へ突入だ。
 フブリ空港は楽しくなるくらい小さなローカル空港だ。手荷物を待ちながらささやかな到着ロビーを散歩していていると、ひとりの男に呼び止められる。迎えに来たというのだ。
 手荷物を受け取り、男について、タクシーに乗り込む。彼はベンカテッシュという名前で、カディ博士から送られてきた人だった。博士の弟子で、やはり木綿研究でPhD(博士号)を取得した研究者だ。現在は民間の種子会社で主任技師をしているという。車は南インドの田園地帯を一路、カディ博士の自宅へと向かう。

 ここカルナタカ州はインドでいちばん養蚕の盛んな州で、州都バンガロールにはインド蚕糸局の本部も置かれている。バンガロールには15年ほど前、真木千秋やウダイとともに手引の絹糸を探しに来たことがある。以来、この州で産出する絹糸はMakiには欠かせないものとなっている。
 今回の目的地ダルワードは、同州の北部にある文教都市だ。同州第二の街ということで、大学や研究施設が幾つも立地している。

 カディ博士の家は空港から30分ほどのところにあった。
 今回はたまたま赴任先のナーグプルから休暇で帰宅していたのだ。
 博士は長らくここダルワードの州立農業研究所で綿花の研究に勤しんでいた。
 二年ほど前に国立綿花研究所の所長に迎えられ、以来、中部マディアプラデシュ州のナーグプルに奉職している。
 いかにも木綿研究界の大御所といった風情。家には弟子のシッダルタ博士も州都バンガロールから駆けつけていた。この人も有色綿の研究でPhDを取得した人だ。

 ところで、綿花研究所の所長が「カディ博士」というのは、かなり傑作だ。
 読者のみなさんは御存知であろうが、カディとはかつてマハトマ・ガンディーが奨励した手紡ぎ手織りの木綿布。当スタジオでもほとんど毎年カディ展を開催しているくらいのお気に入りだ(今年は6月)。私もパンツにシャツに愛用している。
 綿花研究所の所長名としては、ハマリすぎ。まるで養蚕研究所の所長が紬(つむぎ)博士というようなものだ。
 聞くところによると、先祖がいつもカディを着ていたので、カディという名字になったらしい。

 ただし、カディ博士もベンカテッシュ博士も、あるいはシッダルタ博士も、この日はごく普通の機械織り綿シャツとパンツを御着用であった。
 ま、インド綿産業の主力は機械だし、彼らは学者だから仕方ないか…。
南インドの農村風景。
綿を取った後の綿草を牛車で運ぶ。
燃料として調理などに使われる。
有色綿の研究

 カディ博士が有色綿の研究に着手したのは、前述の米国フォックス博士より早く、今から25年ほど前のことだという。
 そもそも有色綿はインド各地に土着していた。
 その希少性ゆえに高貴な布として珍重されていたようだ。たとえば15世紀には宗教儀式の時などに高位の人々によって着用されていた。
 しかし徐々に繊維として利用されなくなっていく。

 そうした有色種が東部マニプール州や南部アーンドラプラデシュ州などに残っており、カディ博士はそれに注目する。
 そうした有色種は短繊維ゆえ、機械はもちろんチャルカ(紡ぎ車)によっても紡げない。チャルカというのはガンディー推奨の手紡機だ。
 そこで博士は研究に着手し、品種改良によって有色種の繊維伸長に成功。かくして有色種はチャルカによって紡げるようになる。

 また有色綿など土着種は病害虫や乾燥に強く、また多肥を必要としない。
 品種改良された有色綿も、そのような土着種の長所を引き継いでいる。
 すなわち、無農薬・無化学肥料という有機栽培が可能であり、また天水のみで育つ。
 近代的な白色綿は先述の通り、農作物の中で最も多農薬であり、また化学肥料や灌漑設備を必要とする。

 また近代的な白色綿は、製品化するにあたり、強洗や漂泊、マーシャライズ(つや出し)加工などが施され、更に染色の工程が加わるということで、ベンカテッシュ博士いはく「言葉は悪いが、着用する前にレイプされている状態」だそうな。
 またその工程ごとに化学薬品が使用されるので、環境にも負荷がかかる。
 さらに、「まぶしい白さ」を保持したければ、日常的にも合成洗剤や漂白剤が必要となる。

 その点、有色綿をそのまま使えば、漂泊剤や染料はいらないし、洗濯も水や石鹸で十分だろう。
 いろんな意味で好都合な繊維素材なのである。

 カディ博士はそうした研究のパイオニアであり、その作業が現在も継続的に、ここダルワードの州立農業研究所やインド中部の国立綿花研究所で行われている。
村の作業場。
小麦粉で糊を作る。
この糊で糸の糊付けをする。
国防色の綿花(上)と茶綿の糸(下)
■カディ組合

 
現在、インド国内で有色綿が栽培されているのは、ここダルワード地区のウッピナ村のみだ。
 他品種との混淆を避けるため、現在のところこの一村に限られている。
 州立農業研究所から種子が供給され、村のカディ組合が栽培から織布まで手がけている。

 カディ組合というのは、村ごとに組織された農民たちの組合だ。
 インド政府カディ局の指導のもと、農民たちによって運営されている。
 マハトマ・ガンディーがカディを奨励したのも、農村部に仕事を与えるためだ。特に乾季にあたる1月から6月までの半年間、野良での仕事はほとんどない。その間に糸紡ぎや織布などの仕事があれば、農民にとっては誠に有難い。
 ここカルナタカ州はインドでもタミル州に次ぐカディの大産地だ。州内にはこうしたカディ組合が117あるという。

 ウッピナ村はダルワード市内から二十数km離れたところにある。
 カディ博士夫妻や弟子たちとともにウッピナ村のカディ組合を訪ねる。
 村までの道中はのどかなインドの畑作地帯だ。
 綿の収穫は既に終わっているとのことで、綿畑には何もなく、乾いた大地は耕起されている。

 丘の上に建つカディ組合は、おそらくこの村でいちばん大きな建物であろう。
 設立は今から50年前の1956年。
 私がここを訪れる最初の外国人だということで、村人が大勢集まり熱烈歓迎を受ける。NikonのD70を持った少年カメラマンまでいる。
 組合長のアブドル氏が、花輪ならぬ茶綿の輪を首にかけてくれる。

 二階に大きなホールが二つあり、女たちが茶綿を紡いでいる。
 その数、合わせて百人くらいだろうか。壮観である。
 実は私はカディの糸紡ぎを見るのは初めてだ。

 カディの糸紡ぎというと、ガンディーの有名な紡ぎ写真が思い出される。
 手許にあるのは、チャルカと呼ばれる木製の糸車だ。

 現在の手紡機(チャルカ)はその改良型で、アンバー・チャルカと呼ばれている。
 鉄製で八本同時に糸を紡ぐことができる。
 ガンディーのチャルカに比べると、50倍の作業効率だという。

 チャルカの上方に綿のスライバが8束、巻かれている。
 スライバとは糸になる前段階で、篠綿(しのわた)と呼ばれる綱状の綿(わた)だ。
 写真の通り、円筒にベージュ色の茶綿スライバが分厚く巻かれている。
 綿花から直接糸にするわけではなく、その前にスライバづくりなど幾つかの工程があるのだ。
 このスライバづくりまでは最近では機械で行われている。
ウッピナ村のカディ組合。
コの字型の二階建て。
二階に糸紡ぎホールがある。
カディ組合の玄関にて。
私の向かって右側がカディ博士。
左側がベンカテッシュ博士。
私の首には茶綿の輪。
大きな部屋で糸を紡ぐ女たち。
夏の炎暑を防ぐため、窓は小さくなっている。
■茶綿糸と布

 
有色綿というと茶綿がいちばん知られているが、ほかにも色はある。
 インドの場合、「国防色」と呼ばれる緑かかった綿も伝統的に紡がれたようだ。
 カディ博士のグループも、この茶色と国防色のほか、様々な色を研究している。
 ただ、現在のところ、実際に栽培されているのは茶綿のみだ。

 その茶色も、濃淡22種の色調が開発されている。
 現在栽培されているのは、その中の中間的な色合い、「アーモンドカラー」と呼ばれる品種のみだ。この色調がいちばんインド人にも洋装にも合うということらしい。

 茶色が実用に供されている理由は、その美しい色合いのほか、対光堅牢度に優れている点がある。
 茶綿にはおもしろい性質がある。綿花が弾けた当初は白色なのだが、日光に晒されることによって茶味を帯びてくる。
 更に、布に織られ、衣となった後も、水で洗濯を重ねるたびに、茶は濃くなっていく。洗濯を20回ほど経ると、ようやく色は落ち着くのだそうだ。

 さて、ここで紡がれる茶綿糸。
 想像していたような手紡ぎ糸と、チト違う。
 弊スタジオが通常目にしている手紡ぎ糸と言ったら、タッサーシルクのギッチャ糸やナーシ糸だ。その不均一なファジー感が魅力である。
 こちらの茶綿糸は、綿という異素材で、撚糸されているという違いはある。それにしても、かなり均質でキレイな糸なのだ。

 太さは33カウント。
 1kgの綿から1kmの長さの糸を紡ぐと、1カウントと呼ばれる。だから33カウントというと、1kgから33kmの糸を取ることになる。
 インドの極薄綿生地であるマンガルギリで使う綿糸は80カウント前後らしいので、33といえば標準的な太さなのだろうか。
 現行の茶綿種ではこれより細くは紡げないそうだ。

 織り上げた布を見せてもらう。
 タテヨコにこの茶綿糸を使った、手織りカディだ。
 私の持っている「タイ茶綿」によく似た色合い・手触りの生地だ。
 糸が均質だから、布も均質でキレイである。
 二本取りのやや厚めでしっかりしたアーモンド色の布だった。
 一本取りの薄めの布もあるが在庫になかったので、一反織ってもらうことにする。
 機(はた)は各家庭にあって、農作業の合間に織っている。

 一階にある事務所に、濃茶の綿花サンプルがあった。
 22の色調の中で、いちばん濃い品種だという。
 色だけ見れば、タッサーシルク、それも私たちの好むレイリー種の真綿とそっくりだ。
 こんな綿を手で紡いだら、どんな糸が取れるだろう。
 ただこの濃茶種はまだ栽培されていない。
 これを栽培してもらうとしたら最低ロットはどのくらいか、とアブドル組合長に聞いたら、1トンだという。
 1トンと言ったら、カディ地が5千メートルも織れる。ウチみたいな零細スタジオではとてもじゃないがさばききれない量だ。
 しかもカディ組合には資本がないから、代価の半分は前払いだという。
 インドの農民に半分前払いで布を5千mも注文するなんて、まさにインド人もびっくりだ。
(ちなみにこの有名なフレーズの出典は遠くダンテの『神曲』に遡るという)
紡錘を8つつけた改良型チャルカ。
茶綿糸に糊付けし、乾かしている。
その後、タテ糸にかける。
濃茶の綿花サンプル。
背景はアーモンド色綿布。
■博士のカディシャツ

 私は以前から、ある木綿布を探していた。厚手・生成・不均一の手織布だ。よく古布で見かけるようなボコボコした生地。
 中国では「土布」と呼ばれ、現在でも織られているらしい。私のクロゼットにはその土布製の作務衣が四着ある。いちばん古いのは二十年モノだ。今ではボロボロに擦り切れているが、気持ち良いから部屋着で使っている。
 「綿の国」インドには当然存在してしかるべき布だが、この二十年間、ついぞ見かけたことがない。
 インド各都市には、ガンディーの思想を体した「カディバンデル」という公営のカディショップがある。そこへ出かけて綿布を見せてもらっても、生地は薄手が中心で、色は青いくらいに白い。

 ダルワードに来て三日目の朝、ベンカテッシュ博士の案内で、ある家を訪問する。
 彼のかつての同僚、マンジュラ博士の家だ。木綿の女性研究者で、州の農業研究所に勤務している。
 夫君のチャンドラ氏もかつてカディ博士のもとでPhD(博士号)を取得した人であったが、今は木綿の研究を離れ税務関係の仕事をしている。三十代半ばの可愛らしいカップルであった。
 奥さんのマンジュラ博士が話の途中、じつはこんなものがあるんです、と奥から取り出してきたのが、夫君の木綿シャツ。
 それを見て、思わず私は声を挙げた、「これこそオレの見たかった布だっ!!」
 厚手、生成の、ボコボコした木綿。
 いくら探しても見つからなかった布に、このインテリカップルの家で巡り会うとは。
 しかも茶綿の生成である。

 そのシャツは五年ほど前、初めて茶綿から紡ぎ、織り上げた布から縫製した男物だった。
 おそらくあまり売れなかったのであろう、マンジュラ博士の手許には何着もある。
 それをチャンドラ博士が順繰りに着ているのだ。
 やはり気持ち良いから、一年中ほとんど毎日着ているらしい。
 見せてくれた一着は二年前に下ろしたもので、通算六百日着用、三百回洗濯したという。ホントに毎日着ているわけだ。

 「これこそオレがダルワードで見た最高の布だっ!!」
 私のこうした反応に驚いたのはベンカテッシュであった。
 じつは彼、五年前にこの布が誕生した時、すこぶる不満であった。
 こんな布、誰が買うもんかっ!と言い放ち、みずからハサミを持ってデコボコ部分を切り整え、ホントにキミたちは余計な手間をかけさせるんだから…と農民たちにブツクサ言っていた。
 以来、彼ら研究者グループと農民たちは努力に努力を重ね、今日見るようなキレイな布を作り上げるに至った。
 ところがこの男(ぱるば)ときたら、自分たちの努力を無にするようなことを言う。

 つまりこういうことだ。
 彼らの努力は、「いかに手で、機械に負けないようなモノを作るか」であった。
 ところが私たちに言わせれば、「機械でできるものは機械に任せ、手では手でしかできないことをする」というわけである。
 この博士の古シャツは記念として私に贈呈されるのであった。
チャンドラ博士(左)とマンジュラ博士(右)の夫婦。夫は茶綿シャツを着用。
奇跡的に残っていた茶綿の畑。
マンジュラさんから茶綿シャツを贈呈される。
■綿花の畑

 これはベンカテッシュにとって、目からウロコであったらしい。
 「なるほど、こんな布を欲しがる人がいるのか!」
 この一件をカディ組合長のアブドルに話すと、アブドルも「じつは…」と言う。
 あの布は組合にもまだ在庫として残っているのだが、恥ずかしくて見せられなかった、と言うのだ。
 「これから関係者を集めて会議だ」とベンカテッシュ。

 これは世界のどこでも起こることだが、圧倒的な機械力に眩惑され、手仕事の価値が見えなくなる。
 手仕事は低次の、恥ずべきもの、と見なされてしまう。
 しかし皆さんなら御存知のごとく、手仕事には手仕事の良さがある。
 チャンドラ博士だって、そんな恥ずべきシャツが気持ち良くて手放せない。
 ベンカテッシュも、一緒に訪ねたカディ専門店で草木染めのカディシャツを購入し、気持ち良いと喜んでいた。(おそらく初めてカディを着用したのではあるまいか)

 事の次第をデリーにいる真木千秋とニルーに電話で伝えると、二人とも興味津々。
 ぜひ糸や布のサンプルを送って寄こせという。
 ただ、彼女らにとっては、糸が均質過ぎてつまらないかも。
 そこで組合長のアブドルに相談してみる。
 糸が均質な理由は、ひとつには機械で作るスライバが均質だからだ。
 スライバづくりを手でやると、価格は多少高くなるが、糸はもっと不均一になるという。
 また現行種では33カウントが細さの限界だが、マンジュラ博士の開発した品種では100カウントの極細糸も紡げるらしい。
 濃茶種なども含め、まだまだいろんな可能性のある有色綿だ。
 
 このウッピナ村では有色綿のほか、従来の白色綿も栽培されている。
 白色綿も土着種とアメリカ種の二種類ある。
 土着種は短繊維で、有色綿と同じく無農薬有機栽培が可能だ。
 土着の白色種は9月播種(たねまき)で、2〜3月が収穫。
 茶綿は6月播種で、収穫は10月から始まる。
 私の訪ねたのは4月なので「もう畑に綿は無いよ」と言われるが、ちょっと車を走らせると、まだ白色綿の残る畑が見つけられる。
 
 さすがに茶綿は残ってないだろうと思っていると、三日目、遠方に何やら怪しい畑を発見。車を止めさせてチェックすると、これが茶綿畑であった。インドでは何でも可能なのである。
 綿花をいくつか採取してサンプルに持ち帰る。
 綿花の中には種も入っているので、ホントは門外不出なんだけど、密かに竹林で育ててみよう。
白色綿の畑
この品種は土着種で病害虫に強く、また天水だけで育つ。
茶綿の綿花と強撚糸のサンプル。
糸の方が濃色だが、これは綿花がまだじゅうぶん陽に当たってないためと思われる。
■学者と農民と私

 三日目の昼過ぎ、私は再びカワセミ航空で次の目的地チェンナイへと向かう。
 注文した糸や布のサンプルは、翌日の月曜日、アブドルが組合の倉庫で取り揃え、ベンカテッシュ博士がデリー向けに発送することになっている。
 これが無事届くかが第一関門なのだが、ベンカテッシュがついているから大丈夫だろう。

 今回はこのベンカテッシュが本当によく動いてくれた。
 空港での出迎えから三日間、親身に世話をしてくれる。
 共にとった朝食代からデリーへの発送代まで、なんでも自分のポケットマネーで支払う。
 いちばん助かったのは、私の質問に何でもじっくりと答えてくれる姿勢だ。ここに記してあることも多くは彼の労に負うている。
 なにしろ私は木綿についてまったく素人だし、更には英語を介してのコミュニケーションだから、さぞかし骨が折れたことだろう。(英語も彼のほうが上手い)

 現在は民間の種子会社の主任研究員として、ここダルワードに事務所を開設する準備をしている。
 茶綿の生産高はまだ微々たるもので、その種子会社も茶綿は扱っていない。なのになぜそんなに熱心に手助けしてくれるのか聞いてみた。
 すると、第一に自分もかつてカディ博士グループの一員として有色綿の開発に携わったこと、第二に少しでも農村部に仕事を与えたく思っているからだという。
 ともあれ、きっと、かわいい茶綿を見にわざわざ日本人が訪ねてきたのが楽しかったのだろう。

 当初は「半日もあれば済むだろう」と思っていた茶綿産地訪問が、二泊三日の滞在となる。
 まだやりたいことは残っていたのだが、次の予定があるので、三日目の昼過ぎ、ダルワードを後にして、車でフブリ空港に向かう。
 打合せが残っていたので、ベンカテッシュと組合長アブドルにも同乗してもらう。
 学者と農民と私の、ちょっと妙な組み合わせである。
 そして首都デリーにはニルーと真木千秋という強力な(!?)テキスタイルデザイナーが控えている。(そういえば州都バンガロールの美術大学ではニルーの娘グディアがデザインの勉強をしている)。

 かくして、二人に見送られプロペラ機ATR72でフブリ空港を後にする。
 眼下には乾いた灰褐色の畑がモザイク模様のように広がっている。
 そのどこかで茶綿が栽培されているはずだ。
 さてこの茶綿が、いつの日か、日本でいささかなりとも花を咲かせるであろうか。
家の中に設置した地機(じばた)でカディを織る老人。
左から組合長アブドル、私、ベンカテッシュ博士。三人ともカディシャツを着用。フブリ空港ロビーにて。
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