インドの秘境・バスタル訪問記


1.広域地図

4.ジャグダルプールの街

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■旅の発端

 バスタルがなぜユニークなのかというと、ここはインド先住民が濃密に居住しているからだ。
 そしてタッサーシルク。
 Makiはここ三十有余年、タッサーシルクを使い続けている。
13.繭を持ち込む先住民の男

 タッサーシルクにもいろんな品種があるが、その中で一番濃色でツヤの良い糸の採れるのが、レイリーという品種だ。
 このレイリー繭は養蚕できない天然種だ。原生林の中で先住民が採取してくる。

 レイリー繭の集散地がバスタルの中心地ジャグダルプールだ。上地図、バスタルの黒マークの真ん中あたりにある。結構大きな街で、空港まである。(プロペラ機がライプールとハイデラバードに飛んでいる)。このジャグダルプールには、不肖私ぱるば、以前二回ほど来たことがある。30年前と、15年前だ。すなわち15年ごとに来ていることになる。

 以前の二回は、ジャグダルプールのタッサーシルク研究所と関連機関のみであった。研究所の職員によると、先住民の定期市(マーケット)には採取された繭が出ると言う。その現場を訪ねてみたかったが、現地のドライバーが嫌がって果たせなかった。なぜかというと危険だからだ。極左武装集団の巣窟になっていて、公安関係者やジャーナリストに数多の犠牲者が出ている。
  それでもいつか訪ねてみたいと思っていたところ、松岡宏大氏から声がかかった。「地球の歩き方・インド版」編集長である。バスタルに一緒に行かないかという誘いだ。先年彼は造形作家の増満兼太郎氏とバスタルに行ってるのである。現地に良いガイドがいて先住民の村に案内してくれると言うのだ。それは面白そう、ということで、インド出張もあるし、話に乗ることにした。

11.バスタルの田園

9.竹で葉皿を編む村人



■先住民の居酒屋

 レイリー繭の取引現場を見届けて満足した私は、アウェシとともにマルシェに繰り出す。先住民があちこちから集まり、思い思い、地面に棒を突っ立ててビニールの天幕を張り、露店を出している。珍奇なものがいろいろ売られている。まず私の買ったのは小さなゴーヤー。指先ほどのかわいい大きさだ。どんな味がするのだろう。ついでに、それを売っている老婆に聞いてみた。タッサー繭のサナギは食べていたのか、と。
 日本でもかつては蚕のサナギを食べていた。信州では今でも食べている。韓国や中国でも食べている。メガラヤのカーシ族も食べている。 バスタルの先住民もきっと食べていただろう。ところが、そう聞かれた老婆は、なんだか立腹した様子だった。侮辱されたと思ったようだ。きっと食べていたのだろう。今は食べないようだが。ちょっと聞き方を間違えたかなと思った。
 それから別のところで、野生ウコンのパウダーを買った。ついでに、それを売っていた老婆 に、今度は、かつてタッサー繭から糸を取っていたかと聞く。すると、首を縦に振る。次いで、サナギを食べていたかと聞くと、やはり首を縦に振る。あっさり首肯するので、面倒くさがっていたのかもしれない。それ以上聞くのは止めにした。

 ガイドのアウェシと別れ、ブラブラ市場を見て回る。 すると、とある露天で、金属の甕に入った白い飲料が売られていた。これは椰子酒に違いない。バスタルビールとも呼ばれる、椰子の樹液を発酵させた飲料だ。一杯くれと言うと、店の女将は金属コップになみなみと入れてくれる。アルコール度は日本のビールより低い。私はそんなに酒の強い方ではないし、慣れぬ飲み物なので、一気飲みは憚られる。それで店の脇の地面に腰かけ、ちょっとずつ味わう。微発泡でほのかな甘味と酸味があって、けっこう好きだ。何かつまみが欲しい。店にはヒヨコ豆の料理が備えてある。それをくれと言うと、女将は沙羅の皿に盛り付けて、タダで私にくれる。食器がないから食べづらそうにしていると、葉っぱでスプーンをこしらえてくれる。なかなか気の利く女将だ。そこで私は店先の地面に腰かけて、前を通る女たちの品定めをしながら、ヒヨコ豆をつつきつつ、ちびちびとバスタルビールやるのであった。これはなかなか楽しい。私は何の因果か今まで居酒屋とかバーとか全く縁がなかったのであるが、こんなだったらまんざら悪くないなと、インド屈指の未開地で妙に納得するのであった。(右写真:居酒屋)


8.採取した繭
18.村の織工



■繭の採取

 ファグヌはルンギ1枚の裸足で、スタスタと森の中へ入っていく。いったいどんな足裏をしているのだろう。森の入口にある一本の木の下に佇み、見上げるファグヌ。ダウラという樹種だ。
 タッサーシルクの主なる食樹は沙羅だが、それに限られるわけではない。ちょうど日本の天蚕が楢クヌギ栗 などいろいろ食べるのと同様だ。そのあたりが桑しか食わない家蚕と違うところだ。
 食樹としては沙羅が一番だが、次いで、ダウラ樹、アルジュナ樹の順番だそうだ。沙羅の樹皮は吸水性があって、雨後には滑り易い。それに沙羅は杉みたいに聳え立つので、雨後に登るのはいくら森の民でもかなり怖いんじゃないかと思う。そこで今日は比較的組みしやすいダウラに照準を定めたというわけだ。樹皮も乾いているし、沙羅ほど屹立してはいない。
 下から見上げたところで、繭が見えるわけはない。向こうも生活がかかっているから、そう簡単に見つかっては困るのだ。タッサーシルクの天敵は、猿やネズミ、そして人間だ。下から見ても我々などにはぜったい見つからないし、見つかるようなのは先住民がとっくに採取しているだろう。
 やおらスルスルと猿(ましら)のごとく木に登るファグヌ。 太い下枝にたどり着き、繁る枝葉の先を凝視する。そして竹竿を伸ばし、小枝をたぐり寄せる。枝先をポキリと折り、それを我々の下に投げ落とす。拾ってみると、紛うことなきレイリー種。飼育種とは違う硬く充実した手触りだ。想像とちょっと違ったのは、繭が幾枚かの枯葉を纏っていたことだ。こうすることでより目立たなくしているのだろう。
 下から見ると優雅な樹上活動だが、実態はそんなもんじゃないはずだ。オレも申年で木登りは好きな方だが、下で見るのと木の上は大違い。かなりおっかない。落下しようものならタダじゃすまない。そこはさすが森の民。澄まし顔でやってのける。オレじゃ絶対できない軽業だ。
 この日は20分ほどで完全繭2つと穴開き繭1つを採取して終了。私としては現場が見られたので大満足。先住民は森のもっと奥まで入るのだが、危険を冒してこれ以上深入りする必要もない。バスタルのジャングルには虎や、もっと怖い子連れの熊や、もっと怖いテロリストが出没するのだから。
 ファグヌの樹上行動を見上げる我々の足に、チクッという鋭い痛みが走る。靴下の上から蟻が噛むのだ。これはたまらん。蚊も居るし。ところがファグヌは上半身裸に裸足で、まったく涼しい顔をしている。先住民は遺伝子からして違うのだ。もちろん眼力も。
 帰り道、ファグヌは繁みから一本の植物を引っこ抜く。野生のウコンだそうだ。栽培モノとはコクが違うとガイドのアウェシが言う。味わってみたいと思ったが、その前にファグヌが繁みに植え戻していた。



■バスタルへの道

 2022年9月11日夕刻。成田空港からインド航空機でデリーに到着した私、田中ぱるば。下町のホテルで松岡氏と合流。翌朝デリー空港から中央インドの街ライプールへ飛ぶ 。(上地図参照)
  ライプール空港でタクシーに乗り、約8時間南下。途中で夕食を摂って、夜の9時過ぎ、バスタルの中心地ジャグダルプールに到着する。
  インド北部にあるganga maki 工房から見ると、南南東に直線距離で1,500kmちょっと。東京から奄美大島くらいの距離であろうか。

  なかなか大きな街だが、やはりインドの僻地なせいか、雰囲気は15年前とあまり変わらない。投宿するホテルのロビーでガイドのアウェシに会う。先年、松岡&増満両氏を案内したガイドだ。三十代後半であるようだが、インド人の常としてチト老成して見える。名前からするとイスラム教徒。 先住民ではないが、この地に生まれ育ち、大学で教育を受け、先住民の言葉もよくする。松岡氏によるとバスタル随一のガイドだということ。「歩き方」編集長の言うことだから、まず間違いはあるまい。

 翌日はいきなり繭を採取する村へ連れていってくれるという。
 マジかよ!?
 野生タッサーシルク繭の採取現場に居合わせるなど、日本人はおろかインド人すら滅多にないことであろう。(ま、そんなことに興味あるインド人もおるまいが)
 オレとしては、先住民の定期市に持ち込まれる繭を見られれば満足、といった程度の認識であった。それが、採取の現場まで見られる!?
 ただ、アウェシ君、「今年は雨が多く、繭のできが良くない」などと予防線を張っている。ここバスタルはまだ雨季の最中だ。前日の首都デリーに比べると涼しくてしのぎやすい。
 前回のバスタル訪問の際、タッサーシルク研究所の所員から、野生繭の採取は2月と8月だと聞いていた。それでチト遅い感じではあるが、9月上旬に来たというわけ。さて野生繭、レイリーは見られるか!?

5.森の中へ



■織りの村

 ジャグダルプールのホテルに二泊した後、三泊目からは先住民の村で民泊だ。
 市街から北東に25kmほど離れたバジャワンドという村だ。先日の繭の村カワパールは深い原生林の中にあったが、こちらバジャワンド村はかなり開けた場所にある。それゆえにか、より「開明的」と言えるかもしれない。
 バトラ族の村だ。その言葉、バトラ語はアーリア系だという。そもそもここバスタルはインド北部のアーリア族と南部のドラヴィダ族の境界線あたりに位置している。それで先住民も、アーリア文化に影響されたり、ドラヴィダ文化に影響されたりしているのだろう。
 泊めてもらった家は複合家族で、シヴラームという五十前後の男が主だった。家長然とした風格が漂い、これも家父長制を採るアーリア族の影響だろうか。シヴラームという名前自体、シヴァとラーマというヒンドゥー教二大神の合体というまことに強力なものだ。孫のアシーシなど、これもアーリア系の名前だが、学校では英語を学んでおり、その色白でアーリア的な風貌は、首都デリーあたりに連れて行ってもその辺のシティボーイと何ら変わるまい。そんなだからガイドのアウェシも、安心して客を泊められるのであろう。テロリストの匂いはカケラもない。

 この村は織りの村でもあった。総戸数は三百ほどであったが、その1/3が織りを生業としており、村の一区画を占めていた。(シヴラーム家はその区画外) 。すぐ近所にある織りの区画に行くと、あちこちで朝から機音(はたおと)が聞こえてくる。どの家を覗いても機が置いてあり、家の主人、すなわち男が織っている。
 男主人が生業として織るということ、それはアーリア系の特徴だ。 南インドのドラヴィダ地域に行くと、織工は男が多いが、女も少数であるが機に向かう。
 これが東北インドのアジア系民族になると、もっぱら女が織る。これは昔の日本と同じで、女のたしなみとされ、機織り上手が器量好しということで結婚にも有利となる。
 その意味で、ここパジャワンド村の住民は、バトラ族という先住系でありながら、かなりアーリア化されていると言えるだろう。

 織っているものは、ガムチャやドーティ、生地などだ。ガムチャというのはバスタオルほどのサイズで、男たちは伝統的に肩から下げたり頭に巻いたりする。ドーティというのは3メートルほどの布地で、男たちはそれを下半身に巻いて衣とする。素材は主に木綿。色は生成であった。そこに濃い臙脂色のヨコ糸を打ち込んでアクセントにしている。
 この染料は何かと聞くと、アールaalだという。 (右写真:織り上がったドーティに糊付け)


6.カワパール村の託児所



■先住民のマルシェ

 バスタル地方のあちこちで、先住民の定期市が開かれている。だいたい週一で、同じ曜日に開かれるようだ。だから場所さえ知っていれば、毎日のようにどこかの定期市を訪ねることができる。私も五日間の滞在期間のうち、三度ほど市場に案内された。たいてい村はずれの広場のようなところで開かれる。市の立つ日には、周辺の村々から先住民が売り物を持ち寄って集い、一日中お祭のような賑わいになる。近ごろ日本でも流行っているマルシェのようなものだ。(弊スタジオでも真似事をやったりする)

 私の見たかったマルシェは、野生繭すなわちレイリーの持ち込まれる市だ。ガイドのアウェシュによると、金曜の市に繭が出るという。ジャグダルプールから15kmほど南のナングール という村だ。
  主会場の外側、道路を挟んだ一画に、タープテントが張られている。まだ雨季なので屋根は必須だ。その中に何やら役人然とした女たちが5人ほど座って、客待ちをしている。州蚕糸局の委託を受けて繭を買い取るのだという。一緒になって待っていると、ひとり、またひとりと、袋を持って村人たちがやってくる。袋の中には、自分や家族の採取したレイリー繭が入っている。それをテントの床に広げると、待っていた係員が数え、ノートに控え、現金を渡す。
 繭の買い取り価格も等級によって違う。完全繭の1等は1個4.2ルピー、2等は3.6ルピー、3等は2.8ルピー。穴開き繭は、出殻が1.5ルピー、食害が0.7ルピー という具合。完全繭の等級は大きさによる。出殻繭とは蛾の羽化した繭。食害繭は猿や鼠によって食われ、穴の空いた繭だ。ちなみに猿による食害のほうが穴が大きい。
 価格的に言うと、インドで最も高価なムガシルクの繭が1個2ルピー前後(2018)だったから、それに比べるとかなり高いと言える。これは州政府による原住民援助策でもあるのだろう。それでも15年前の価格が1個3ルピーくらいだったから、インドのインフレ率から見ると値下がりしているとも言える。とは言え、こうして村人が次々に繭を持ち込んでいるのを見ると、先住民にとって今も貴重な現金収入の途なのであろう。

 ところで、そもそも先住民はレイリー繭を繊維材料として使っていたのか? 係員の多くが先住系だったので、アウェシュを通じて聞いてみた。するとひとりの係員いはく、義母が昔、糸を挽いて織っていたという。もう数十年も前の話だ。その織物を見てみたいと言うと、そんなものはもう存在しないという答えであった。
 日本の天蚕も同じだ。今のように布が簡単に手に入る時代には、誰も苦労して山に入って天蚕から糸を挽いたりはしない。 百年ほど前には、拙宅のある武蔵五日市でも、村人は天蚕から糸を挽いて、着物地を織っていたのだ。
 ちなみに、繭収穫の時期は2月と8月。8月の方が良い繭が採れるようで、買取は8月1日に始まり、15日くらいがピーク。そして10月15日に終わるということ。主に先述のドルワ族と、次に出てくるバトラ族が採取に携わるようだ。 (右写真:繭の取引を終えた先住民の女)


10.村人とガイドのアウェシ



■ドルワ族

 インド亜大陸の人類史を簡単に言うと、まずアジア系先住民が居住していたところに、ドラヴィダ系が南下して南インドに入り、次いでアーリア系が北部から東部に広がった、という構図であろう。
 ここバスタルには先住系の人々が多数居住している。おそらくは、深い森と、虎などの猛獣の存在によって守られてきたのであろう。
 カワパール村のドルワ族もそうした先住系のひとつだ。ただその言語、ドルワ語はドラヴィダ系であるとのこと。ドラヴィダ人はインダス文明を築いた人々だと言われている。それが気候変動やアーリア人の圧力などによって3〜4千年前、南インドに南下してきた。現在、カワパール村から100kmも行けばテランガーナ州、すなわちドラヴィダ圏となっている。想像するに、もともとアジア系だったドルワ族の祖先が、先進文化を持ったドラヴィダ人に接する間に、言葉もドラヴィダ化したのであろう。その間、両者の間に混血も起こったであろう。
 ドラヴィダ人自身もアーリア系と接触・混血を経てきているので確たることは言えないが、ドルワ族の容貌は、確かにドラヴィダ系に近いとは言える。ただ、村人の顔を観察すると、我々に近しいアジア的な要素も感じられるのだ。
 バスタル先住系の祖先は南アジア(オーストロアジア)語族の言語の話していたと想像される。そうしたアジア系言語はドラヴィダ系やアーリア系言語の影響によって消滅していくわけだが、インドに残る南アジア語族の言語は、現在、バスタルの近辺にも居住するムンダ族のムンダ語、および東北部メガラヤ州のカーシ語のみだ。カーシ族の村々はかつて私も訪ねたことがあるが、人々はまさにモンゴロイドであった。しかも家の相続が末娘相続という興味深い形態であった。そのあたりは過去の記事カーシ族の村を訪ねるを参照のこと。
 世界の大半が長男相続なのに対して、その正反対の末娘相続ということは、その社会は母系制で女性の地位が高いということだ。
 ドルワ族はさすがに末娘相続制ではないようだが、それでも現代インドを支配するアーリア系ほど男社会ではない。
 アーリア族はかつてサティ(寡婦殉死)を行っていたくらいの家父長制社会で、それだからこそインドを支配できるほどの軍事力を保持していた。女は三界に家なしで、それゆえ夫に先立たれるとその火葬壇を身を投じ、それが婦徳とされた。また離婚すると再婚は一般に難しい。
 母系制のカーシ族はもちろん、 バスタルの先住民の社会では、それとまったく様相が異なるらしい。性的にもゆるやかで、お互い好きになると家を出て一緒になり、子供を作り、飽きると別れて実家に戻ったり、別の相手と一緒になったりするようだ。ヒンドゥー社会のように、離婚女子が出戻りとして日陰の人生を送るみたいな必要はない。
  ま、考えてみるとそのあたりは今の我々と同じであるな。

12.繭買取所



19.糸巻きの芯がおしゃぶり

7.森に入るファグヌ



■森の中の村

 翌朝、車を仕立てて、その村へ向かう。
 ジャグダルプールから南東へ25kmほど、カワパールという村だ。
 街を出て、しばらく耕地を中を走る。水田が多く、なんだか懐かしいような風景だ。
 そのうち森に入っていく。原生林だ。天を突くような沙羅の大木が群生している。森は現地政府によって厳重に保護され、先住民以外の森林資源の利用は固く禁じられている。沙羅というのは釈迦入滅の沙羅双樹で知られるが、ヒンディー語ではsal。インド亜大陸に広く分布し、仏教では聖樹とされる。そして今回の目的であるタッサーシルク・レイリー種の重要な食樹である。また、駄洒落ではないが、その大振りな葉っぱが皿の材料となり、当スタジオもだいぶ世話になっている。

 カワパールの村は、原生林の奥深くにあった。ドルワ族の村だ。
 いちおう舗装された細い道が通っている。雨季だから地面は湿っていたが、村人はみな裸足だ。個数は百戸ほどだったか。 家々の垣根が、割り木や竹でできているのが面白い。掘っ立て垣根という感じ。またバスタルの「バスタ」とは竹という意味で、竹財にも恵まれているのだ。託児所に集った子供たちが物珍しげに我々を見ている。
 やや村はずれの一軒に案内される。 男主人はファグヌという名で、四十前後か。結婚が早いからこの歳でもう孫が居る。ルンギ(腰巻)一枚で上半身裸。やはり裸足だ。これから繭採りを披露してくれるという。
 庭先で細長い竹竿を取り出し、 その先端に細工をして鉤(かぎ)を取り付け、準備完了。右手に竹竿、肩から斧を提げて出動だ。先住民はこの斧一丁で何でもこなすようだ。沙羅の大木もノコギリなど使わず、斧で切り倒してしまう。歯が鋭いのでナイフ代わりにもなるだろうし、ひっくり返せば鎚にもなる。戦いの際には武器にもなったろう。先住民男子の矜持みたいな道具なのに違いない。

 

3.ライプール上空

2.タッサーシルク・レイリー種

20.アールで染めた木綿糸



■アールという染料

 アールという名は初耳だ。植物染料であるが、当地では染めず、他所で染めてもらっているという。
 このアールとは何か、家(ganga工房)に戻ってから調べてみた。すると意外なことが判明する。

 このアールとは、我々のまったく知らない植物ではなかった。和名はヤエヤマアオキ。名前の通り日本では沖縄が北限で、それほど利用されてはいないようだ。しかし南島語族(オーストロネシア語族)の地域では伝統的に大事な染料となっている。 南島語族とは、台湾から東南アジア島嶼部や太平洋の島々、マダガスカルまで広がるアジア系の人々だ。
  ヤエヤマアオキの原産地はインドネシアのモルッカ諸島だというから、まさに南島語族の真っ只中だ。それが東ではハワイやタヒチにまで広がっている。ハワイではノニと呼ばれ、それこそあちこちに育っている。その果実から作るノニジュースは健康に良いという触れ込みであるが、お世辞にも美味とは言えない飲み物である。

 この植物は、かつてインドでは重要な染料として、全土で栽培されていたようだ。現在はバスタルに近いオリッサ州内の限られた場所で育てられ、糸が染められている。前述の村の織師たちはそこから糸を購入してくるのだろう。
 バスタルを始めインドの先住民は出自を辿ると、南島語族(オーストロネシア語族)ではなく、南アジア語族(オーストロアジア語族)に属するようだ。オーストロまみれで、まどろこしい話ではあるが、まあ結局、同じようなアジア系民族なんだろう。その繋がりで、有史以前からこの染料が南の島々から伝わっていたのだと思う。モルッカ諸島からは、地理的に、ハワイやタヒチよりインドの方が近く見える。

 この染料を使った布は、私ぱるばも知らずして長らく愛用してきた。我がベッドシーツがそれであった。おそらく東北インドのアッサム州あたりで織られたのであろうと想像するが、もともとは生成のノイルシルクで織られた大判ショールで、四囲に臙脂色で縁取りがされている。伝統的な布だとは思っていたが、アール染めだったとは驚いた。
 真木千秋も以前からこの色の存在には気づいていたが、ヤエヤマアオキとは結びつかなかった。この植物は沖縄八重山の紅露工房でも栽培され、染色が試みられている。実は先日、その苗を八重山からもらって、弊スタジオに植えたところであった。しかし染色に使うにはまだまだ小さい。
 弊スタジオは産地のオリッサ州とも関わりがあるので、こんどアールを送ってもらおうと思っている。 (右写真:アール染めの糸を織り込んだガムチャ)



■先住民と私たち

 このバトラ族の村に、私は三泊する。
 食事も三度三度供された。バトラ飯というより、インド飯であった。それもなかなか美味しい。
 キッチンには小さな竈(へっつい)があって、薪で煮炊きする。調理台やテーブルなんぞはなく、土間にしゃがんで調理している。大家族なので、主婦というより女たちが二人、三人と集まって調理している。
  先述した東北部カーシ族の料理は徹底的にアジア風だったので、バトラ族のインド飯はそれと好対照と言える。やはり地理的要因もあってアーリアやドラヴィダの影響を色濃く受けているのだろう。わずかにバスタル風と言えたのは、たとえばタケノコ料理。この食材はあまりインド料理には出てこない。その料理を口にしてみると、なにかシナチク風で、カーシなど東北部の料理に通じるものがある。また地鶏のチキンもご馳走になった。それ以外は当然のごとくインド風家庭料理が供され、もれなく美味であった。ということは、いつもそれを作っているということだろう。
 なによりバスタル的なのは、アルコール飲料であろう。そもそもヒンドゥーにしてもイスラムにしても飲酒をなにか悪徳視するようなところがあるが、先住民はてんで関係ないようだ。そのあたりもアジア的と言えるのだろう。みんな酒を造って飲んでいる。先ほどのバスタルビールのほか、米から造るどぶろくとか、マフアの花から造るマフア酒とか。この酒はマフアという木の花を発酵させ、蒸留する、先住民伝統の火酒である。私も毎夜晩酌で少々頂戴したんであるが、無色透明の液体。ワインくらいのアルコール度だった。おそらく水で希釈されていたのだろう。特有な匂いが多少あって、極上の酒というわけでもなかったが、それなりに楽しめた。この家では椰子酒も造っていた。米のどぶろくは別の先住民市場で売っていたが、微アルコールの甘酸っぱい飲み物であった。これも沙羅の葉カップで飲んだが、甘味につられて蜂が寄ってくるのには閉口した。

 このシヴラーム家での一番の収穫は、なにより先住民と近しくなったということだろう。今まで私も先住民の接したことは幾度かあった。たとえばオリッサ州の織元ブラージを訪ねた折、当地でタッサーシルクを紡いでいたのがバトラ族で、私たちはそれを使っている。またその北にあるジャールカンド州にには、弊工房随一の腕利き織師サジャッドの村があるが、そこを訪ねた折にも、村外れにサンタル族の居住区があった
  織元ブラージや織師サジャッドはアーリア系であるが、彼らの側に立っていると、先住民が何だか別世界の住民のように見えた。
 ところが、バトラ族の村で2〜3日、同じ屋根の下で暮らし、同じカランジという枝で歯を磨き(右下写真)、同じ飯や酒を口にしていると、当たり前のことではあるが、そうした距離感がどんどん縮まっていく。DNA的に言うと彼らの方が近いはずだ。ウチの先祖なんかも、信州の片田舎で、江戸時代はきっとこんなだったろうと思わせるものがある。 実際、実家近くの山際では、その頃、天蚕を採取して糸を手紡ぎしていたのだ

 バトラ村での民泊も含め、今回は五泊のバスタル滞在であった。私もインドはいろいろ訪ねたが、これほど先住民の伝統的な暮らしを残している場所もちょっと珍しいであろう。そうしてこうした人々に支えられながら、私たちも布作りの仕事を続けているのである。
 帰りはジャグダルプールの空港からプロペラ機でライプールに飛び、そこからデリーに戻って一泊。翌朝デラドン空港に飛んでganga工房に到着するのであった。 陸の孤島バスタルも近くなったと思う。(写真協力:松岡宏大)

24.村の子供たち


ジャグダルプール空港にて。購入したガムチャを肩に

17.複合家族シヴラーム家

14.先住民市場
16.斧を買う
15.先住民市場
21.シヴラーム家のキッチン
23.バスタルのどぶろく

22.村の軽食堂