オリッサ・タッサーの村を訪ねて

■オリッサ・シルク

 インド東部にオリッサという州がある。
 人口約3700万。
 日本ではオリッシー舞踊(オディッシーとも呼ばれる)
で有名だ。
 また世界遺産コナラクを始め、プーリー、ブバネシュワルの寺院群もよく知られている。
 インドの中でも、伝統的な暮らしがよく残っている地方だ。
 いつか訪ねてみたいと思っていたが、この冬、その機会が巡ってきた。

 ここ二三年前から、タッサーシルクの美しい糸と布が手に入るようになった。
 真木千秋たちが「オリッサシルク」と名づけるそのタッサー糸や布、その名の通り、オリッサ州から来ているとのこと。
 そこで今回は、その故郷に足を延ばしてみることにした。

13 ビスと太カティア糸

 

 日本からその美しい糸や布も持参する。(写真右)
 三本の糸サンプルのうち、左側がナーシっぽい糸。ただ、従来のナーシより濃色で風合いも違う。
 真ん中が太カティア。そして右側が細カティア
 下の布がタテヨコとも細カティア糸で織った布。
 さて、これらの糸や布がどのように作られているのか。

 まずは首都デリーで、ビジネスパートナーであるニルー・クマールに、その供給元を紹介してもらう。
 ブラージという名の男だった。
 インドは最近、携帯電話が普及しているから便利だ。
 すごい田舎で、ニルー本人すら行ったことがないというが、すぐに電話が通じて、話をつけてくれる。
 英語も話せるようなので、私ひとりでもなんとかなるだろう。
■オリッサへ

 
その一週間後、オリッサの州都ブバネシュワルへ飛ぶ。
 デリーからは千キロほど。飛行機で二時間ほどの行程だ。
 飛行機が降下を始めると、眼下に広がる景色は、今まで見慣れたデリーやデカン高原とはだいぶ趣が違う。
 緑が多いのだ。田んぼのような農地もあって、なにかホッとする風景だ。
 ブバネシュワルの空港に降り立ったのはちょうど昼ごろ。まだ二月初旬なのに、暑い。30℃はあるだろう。

 おんぼろタクシーに乗って、まずは寺院を見物に海辺の街プーリーへ向かう。
 道の両側はのんびりした農村だ。一時間ほどの道程で、タクシーの運転手にいろいろ話を聞く。
 やはりこのあたりは米作地帯で、米が主食だという。
 インドの米というと、細長くてサラサラしたバスマティ米を思い出すが、あれは高級品種で、運ちゃんは滅多に口にしないという。
 人々が通常口にするのは、もっと丸っこくてボソボソした感じの米だ。それはそれで慣れればウマいもんである。
 海辺なのでフィッシュカレーが美味かった。しかし一番使われるのは淡水産のコイ科の魚だった。コイのカレーというと、「??」という感じだが、けっこうイケるもんである。そういえば私の故郷・信州上田でもコイコク(コイの味噌スープ)を作るが、それに似てるかもな。
 コナラクの太陽寺院はすばらしいものであった。みなさんも機会あれば訪ねてごらんになると良い。(ぱるばのコナラク寺院探訪記はこちら)

 たまたま泊まった宿の女将が日本人だった。オリッサはまた絣の産地でもあるという。
 幾つか見せてもらったが、インド伝統のタテヨコ絣だった。きっと手間のかかるものだろう。
 ただ、機械紡績の綿糸で、染めも化学染料だったので、イマイチ食指は動かなかった。
■タッサーシルクの村へ

 翌日の夕方、オリッサシルクの供給元・ブラージ君がプーリーまで私を迎えに来た。約二百キロの道のりを、バスと友人の車を乗り継いでやって来たという。
 明くる朝、タクシーをチャーターして、二人でブラージの村ファキルプルへ向かう。その前にブラージ君、プーリーの名刹ジャガンナート寺院にしっかりお詣りする。ヒンドゥー教四大聖地のひとつに数えられ、彼はもう五十回もお詣りしているという。残念ながら異教徒は入れない。外から見る限りだが、信州・善光寺よりもかなり衝撃的な寺だ。

 州都ブバネシュワルから先はけっこう立派なハイウェイが通っている。しかし脇道にはいると、だんだんデコボコになり、周囲ものどかな田舎になる。
 四時間ほど走ると大きな河が現れ、人々が洗濯や水浴をしている。そこから先がファキルプルだ。
 車はどんどん脇道に入り、舗装も途切れ、道幅も車一台がやっと通れるくらいになる。そんな田舎道をしばらく行くと、突如、タッサーシルクの繭が行く手をさえぎる。道で繭を干していたのだ。繭の色や大きさからすると、ダバ種のタッサーのようだ。
 若い農婦が急いで出てきて、繭を端に寄せる。ここがブラージの集落だ。

 家の軒下では、農婦たちが太ももを使ってタッサーの糸を引いている。
 都市部ではインド婦人たちが脚を露わにするなど滅多にないのだが、ここではごく当たり前の光景のようだ。
 数個の繭から生糸を引き出し、ももで軽く撚りをかけて繰糸する。
 二年前にここから250kmほど離れたチャッティスガール州のライガールで生糸の繰糸を見たが、そのときとは使う道具が少々違う。あちらでは羽子板のような板を器用に手でクルクル回したが、こちらでは槍先みたいな形の道具を使い、先端を両脚ではさんでいる。(写真4)
 かわいらしい娘だったが、よく見ると額の上に赤い印をつけているので、この家の嫁なのだろう。
 繰り上がった生糸は貝のようなかたちにまとめられ、吊り下げられる。これもかわいらしかったので、いくつかもらってきた。
 

■バンガリの集落


 何百年も昔にタイムスリップしたかのような集落だった。
 わらぶき、土壁の小さな家々が並ぶ。その土壁には、シンプルな白い模様が…。主婦が米粉を使って描くのだそうだ。
 村中の道は狭く、もちろん舗装されていない。裸足で歩くとひんやり気持ち良いだろう。車など持っている人は誰もいない。
 ここは織の集落で、みな何らかの形で織に携わっている。
 朝から晩まで、あちこちで糸をつくり、糸を巻き、タテ糸をつくり、機を織る姿がある。
 生きた博物館のようなところだ。日本だったらさしずめ伝統的家並み保存地区に指定されるだろう。
 この集落はファキルプル村の一部だが、二万人ほどの村の人口のうち二千人くらいが織に従事している。この人々はバンガリと呼ばれている。祖先が北方のベンガル州から移動してきたからだ。機織りを生業とする人々で、バンガリとは機織りのカースト名でもる。結婚もそのカースト内で行われる。

 ブラージの家は集落の奥まった所にあり、レンガとコンクリートでできていた。きっと村でも裕福な方なのだろう。彼は地元で大学院まで出ているそうだ。
 そればかりではない。四人いる男の兄弟の下の二人は、デリー大学で日本語を専攻したという。実際その二人とは電話で話したが、ちゃんと日本語をしゃべっていた。ひとりは今デリーでスズキ自動車に勤め、もうひとりは就活中だという。こんなものすごい田舎出身の青年が日本語をしゃべるとは、ちょっと驚きだった。そういえば弟のひとりが電話口で「すごく田舎なので恥ずかしいんですが」と日本語で言っていたが、ホントにそうだった。
 大学教育は受けていても、ブラージや弟たちは糸作りや機織りもできるという。

 ひとつ特徴的なのは、染めを見かけなかったことだ。もちろん漂泊などもしない。ひたすら天然色の糸をつくり、それを織っていた。
■繭のいろいろ

 
繭も他所から調達する。
 繭の産地は百kmほど離れたKenjur地方やSimlipal地方だ。どちらも森林地帯で、インド原住民(アディバシ)が多く住んでいる。アディバシというのは、ドラヴィダ人やアーリア人の進入以前からインドに住んでいたアジア系の人々だ。繭はアディバシの人々を中心に、森林から採取され、また養蚕されるという。いつか訪ねてみたいものだ。ちなみにSimlipal地方にあるSimlipal国立公園は白虎(ホワイトタイガー)で有名。タッサーシルク・レイリー種を産するバスタル地方にも虎が棲息している。タッサーと虎は共存しているのだ。

 ここファキルプルの村では、五品種のタッサー繭を使っていた。
 その品種名と特長を記すと;

・Daba ダバ 大きめ 産出量も多い
・Mudal ムダル 最も大きい 夏秋に産出
・Bugei ブゲイ 小さめ 秋冬に産出
・Nalia ナリア 小さめ 夏秋に産出
・Jadei ジャデイ 最小 夏秋に産出


 ダバというのはお馴染みの品種だ。中・東部インドで広く飼育され、熱帯タッサーシルク産出量の7割を占める。時期にもよるだろうが、この村で今回見かけた繭のほとんどがこのダバ種だった。ただ、上記チャッティスガール州ライガールで見たダバ繭よりもしっかりしている印象がある。養蚕法に違いがあるのだろうか。
 ブラージによると、たとえばナリア種の生糸は軽くて色つやが良いという。これはおそらく繭が小さいためかと思われる。繭が小さいということは虫が小さいということであり、虫が小さければ繊維も細い。繊維の細さが、軽さや色つやの要因なのではあるまいか。
 今の時期はダバ種の繭から糸が作られていた。ただ、ひとつだけ、ブゲイ種の生糸束があった。良く見ると、やはりダバ生糸に比べて、糸が細い。糸の色もダバより濃色のような気がする。ただ、ブラージの次弟ビドンによると、織りに至るまでの工程の中で色の濃度はみな同じになるという。
 時期の関係で生糸サンプルはダバ種とブゲイ種のものしか手に入らなかったが、夏には他の三種の生糸サンプルも届けてくれるそうだ。
■ブラージ家に泊まる

 
ブラージは35歳。この家の長男だ。ほかに弟が三人、妹が一人いる。上の弟は同じ家に住んで家業を手伝い、下の弟二人はデリー。妹は近所に嫁いでいる。そしてブラージには男の子が二人いる。
 到着するとさっそく昼食を供された。奥さんが作ったのだという。この辺は昼食が主餐だということだが、ごらんの通り八品もあった。まあこの日は客が来るので頑張ったのだろうが、どれも美味。主食は米だ。この家の主婦はブラージの母親のようで、給仕はもっぱら母親だ。物静かなインド婦人であった。何かなくなるとすぐつぎ足しに来るので、しっかり断らないと、延々と食べ続けることになる。
 この村があまりに面白いので一泊することにする。ただ近辺に適当な宿がない。それでブラージ家に泊めてもらうことになる。

 夕暮れ時、近くを流れるバイタラニ河に散歩に行く。
 ここファキルプルは海から50kmほど内陸にあるが、手許の標高計を見ると海抜数十mしかない。河はあくまでもゆったり流れ、河幅は河原も含めて1kmほどもある。
 村の民家の四分の三にはバスルームがない。この河がそっくりバスルームだ。村人たちは、ここで沐浴し、衣服を洗い、また用を足す。
 亜大陸の赤い夕陽が対岸の彼方へと沈んでいった。

 たまたま部落の娘が結婚するというので、晩はその祝宴があった。
 村人や近在の縁者たちが招かれ、娘の家で振る舞いにあずかる。私もブラージに連れられ、わけもわからぬまま、その家で夕食をご馳走になるのであった。
 その夜はブラージ家のリビングで寝る。板の上に薄い毛布を敷いただけの簡素な寝床だったが、こういうのがいちばん健康に良いのかもしれない。
■屑糸のいろいろ

 繭から採れる糸はいろいろだ。
 「良い糸」はいわゆる生糸。上に紹介した糸だ。「良い繭」から千mほど採れる。6〜8個のタッサー繭の繊維を合わせて引き、一本の生糸にする。(写真4)
 生糸のほかに、いろんな屑糸(くずいと)も採れる。Maki Textile はそんなタッサーの屑糸が大好きだ。
 屑糸は副蚕糸とも呼ばれるが、タッサーの場合、屑繭、キビソ、ビス、茎柄から作られる。

 屑繭というのは、蛾が羽化した後の出殻繭、天敵に食われた穴あき繭など、生糸の採れない繭だ。家蚕(日本の繭)の場合、そうした繭は真綿にされ、紬糸が作られる。タッサーシルクの場合、一個の繭から直接ズズッと繊維を引き出し、軽く撚りをかけて糸にする。Makiでもよく使うギッチャ糸だ。
 このギッチャ糸は、ここファキルプル村でも作られていた。写真11のように、壺の底を使う方法でギッチャを紡いでいた。

 冒頭に掲載した糸の写真。その右側の「細カティア」は、キビソから作られていた。キビソというのは生皮苧と書き、繭の一番外側の部分だ。
 生糸を引く際、糸口が見つかるまで、外側の部分を取り除く。それがキビソ。
 写真4の若妻の左脇に大きめの糸巻きがあるが、まずそこにキビソを巻き付け、糸口が見つかると、生糸を引くわけだ。
 糸巻きにキビソがたまると、それをナイフで切り開き、上から吊して、紡錘をクルクル回しながら糸を紡ぐ。写真12がその様子である。農婦が右手に持っているのが紡錘だ。そうして写真2に見るような細カティアが紡がれるのだ。

 その隣にある太カティア。これはビスから紡がれる。漢字では皮巣と書くらしい。
 繭から生糸を引いた、その残りの部分だ。
 その部分をまとめておいて、そこから紡錘も使わず、手で紡ぎ出すのが、太カティア糸だ。写真13はブラージに太カティア作りを実演してもらったのだが、糸作りは通常、女たちの仕事のようだ。

 ところで、もうひとつ、写真2の左側にあるナーシ様の糸。これは、Makiが今まで使っていた隣州ライガールのナーシ糸とやや違う。色が濃く、撚りが甘め。織上がるとふっくら軽くて、縮みがあまりない。濃色はMakiの好みだが、何かで染めているのだろうか。
 ブラージによると、これはファキルプル村で紡がれたものではなかった。
 タッサー繭には臍の緒のような茎柄があって、それによって木の枝からぶら下がっている(写真8参照)。この村ではその茎柄はすべて北部ビハール州のバガルプルに送る。そしてこのナーシ糸はバガルプルで作られ、村人は必要に応じてその糸を購入している。ブラージによれば、染めてはおらず、天然の色だという。

 こうした「屑糸」は、ストールや服地、インテリア製品など、Maki布を織る際に欠かすことのできない存在だ。
■そして布を織る

 糸を作って、布を織る。
 集落を歩き回っていると、あちこちの軒下で織に関わる作業が行われている。
 右写真14は、タッサーの糸を二本、引き揃えているところ。ヨコ糸に使うのだろうか。
 写真15は、夫婦でタテ糸を作っているところ。Makiのデリー工房みたいな回転式ドラムはなく、壁面いっぱい使った整経機だ。

 そして、写真16が、冒頭の写真2にも出てきたカティア布のタテ糸だ。おじさんが家の軒下から垂らして手入れしていた。真木千秋のお気に入りの布である。こんな環境で作られていたのだ。ちょっと感動的ではないか。
 いつ機にかけるのかと聞いたら、注文がないからかけられないとのこと。
 タテヨコとも細カティア糸を使って織る。おそらく、このような布は、ウチくらいしか注文しないんじゃあるまいか。Makiではこの「カティア×カティア」の布を、衣服やクッションカバーに使ってきた。
 このような手仕事は、注文がないと、やがて絶えてしまう。だから私たちもできるだけ発注をかけて、村人たちに織り続けてもらいたいと思う。
 ただ季節ごとに繭の種類や気候、織り手の調子が違うから、上がってくる布も違うのだ。現に、ひと月ほど前にこの村から到着したカティア×カティアの布は、写真2の布に比べて色が薄く、織りも甘い。それをどう活かしていくか、今インド滞在中の真木千秋&図師潤子は思案しているところである。ともあれ他にはない布なので、つい先日も追加発注をした。その際には「もっと濃い色で、目を詰めて織ってほしい」とブラージに指示する。はたして通じただろうか。ともあれ、これでおじさんもこのタテ糸を機にかけることができるだろう。

 ところで、昔、「ギッチャ×ギッチャ」の布があった。これは隣州チャッティスガールのチャンパで織られていた。木目のような茶色と、ふんわりした風合いが心地よく、メンズのシャツなどを作っていた。私も二着所持していて、まことに重宝している。しかしもう十年以上も作っていない。布が織られなくなってしまったのだ。注文しても届かなくなり、届いても品質が落ちて、使いものにならなくなった。インドも変化が著しく、数千年続いてきたであろう手仕事も、往々にして途絶えていく。
 このファキルプル村ではギッチャ×ギッチャの布は織っていなかったが、私たちはもう一度あの布を手にしたいと思った。それでブラージに聞いてみると、やってみるとの答え。それで発注をかけてみた。さて満足いくようなものが届くであろうか。

 写真17は機織りの様子。タテ糸はチャンパ産のタッサー絹紡糸、ヨコ糸はギッチャ糸だ。この村では男も女も織っていた。
 機(はた)は室内に据えられている。私が見た限りでは、穴を掘った地機(じばた)ではなく、Makiの工房でも使っているような高機(たかばた)だった。
 朝早くから夜遅くまで、カタン、コトンと、機音(はたおと)が聞こえる。車もなにも無いから、村人の声や生活の音のほかは、機音だけだ。テレビやラジオも普及しているらしいが、それらしい音も聞こえない。束の間の来訪者の目には、ただひたすらにのどかな昔ながらの集落だった。
■南国オリッサを後にして

 当初ブラージは「30分もあれば全部見られますよ」とか言っていたが、とてもそんなわけにはいかない。
 見るものすべて珍しく、たっぷり一泊二日の滞在となった。
 村人たちにも珍客であったはずだが、特別に意識するふうもなく、日々の自然な営みを見せてくれた。
 インドの糸や織の産地にはいろいろ行ったが、ここファキルプルにはひときわ親しみを感じる。これは村に泊まったこともあろうし、ブラージとの間に通じ合うものを感じたせいもあろう。弟たち二人も日本語を話すし。

 二日目の夕刻、おんぼろタクシーを雇って村を離れる。ブラージと村人ひとりが同道する。州都ブバネシュワルまで約150km。刻々と沈んでいく夕陽を右手に、タクシーは国道を爆走する。
 市内の瀟洒なホテルに私を収容し、しばし歓談の後、二人は元来た道をタクシーで戻っていった。

 翌日遅く、私はデリーに戻り、待っていた真木千秋たちに手土産の糸や布を見せるのであった。
 さて、この糸や布が、これから先、どのように活かされていくのであろうか。

 

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1 オリッサの糸と布のサンプル
18 村の子供たち



2 コナラクの海

7 ブラージ家屋上の繭
  右側は息子、左は姪
  後ろには牛糞も干してある

 

14 糸を引き揃える


9 ブラージ家の昼食
8 ムダル(左側)とダバ種(右)
  繭の色はいろいろ。
10 バイタラニ河に沈む夕陽
11 ギッチャ糸紡ぎ
17 ギッチャ糸で織る
16 カティア×カティアのタテ糸
15 タテ糸の整経



6 村の屋並み

12 細カティア糸紡ぎ

 


5 繰り上がったタッサー生糸。



3 村への道中、ブラージとともに


4 タッサーの生糸を引く
村はずれ