絲絲雑記帳

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0/「建設篇」




 

1月2日(木) 地機の屋根

 謹賀新年。
 今年もよろしく。

 さて、先年末お伝えしたganga工房の地機作戦。
 年が改まっても、着々と進行しているようである。

 左は今日送られてきた写真。
 地面に掘られた穴の周りに、棒が幾つか縦横に据えられ、今、屋根が葺かれている。
 藁葺きだ。バスマティ米の藁だそうだ。バスマティというのは「インドのコシヒカリ」と呼ばれる最高級米だが、稲藁としても最高級なのか!?
 屋根を葺いているのは織師マンガル。下から細君のバギラティが藁を投げている。宙を舞っている束が見えるかな?

 正月早々と思われるかもしれないが、インドでは正月はあまり特別な日々ではない。(そもそも祭日がいっぱいあるから、正月ぐらいはちゃんと働いてもらわないと)






 

1月5日(日) パシミナ

 2014年あけましておめでとうございます。
 本年も健やかな年になりますようお祈りしています。

 明日からmaki textile studioも年明けの仕事はじめです。
今日もお天気がよかったので、昨11月頃から毎日毎日ぐるぐると首に巻いて使っている、gangaのパシミナショールを洗いました。
 そうしたらなんともいいがたいふんわりとした風合いに、自分で感激してしまいました。
 毎回洗うと特に思うのですが、手紡ぎのパシミナの糸は使うごとに、そして洗うごとに風合いがよくなってくるのです。私のもこの冬で3年目。gangaで紡いだパシミナの糸は、手紡ぎなので市販の糸より少し太めなのかもしれません。それを手織りし、手洗い仕上げをしただけなので、風合いとしてはまだこれから育つ....。という具合の時に店頭にならんでいます。
 私は結構あらっぽい使い方をしているのですが、あらっぽくつかっても、洗濯機で手洗いボタンでネットに入れずに洗ってもこんな風合いになってくれるのです。
 gangaのパシミナのショールやマフラーをお持ちのみなさん、どうぞあまり神経質にならずに、手洗いか洗濯機の手洗いボタンで洗ってみてください。もしまだ洗ったことがない方はきっとそのふんわり感に驚かれると思います。
 ただ、グレー、ベージュなどのパシミナ山羊の天然色以外の染色は、草木で染めていますので、あまり頻繁に洗うことや、強い陽射しの中にあると微妙に色が薄くなってくることもありますので、気になる方は必ず陰干しをお願いいたします。

 長くなりましたが、布も木や土などの素材と同じで、使えば使うほどその魅力が深くなるものです、そうなられるような糸づくり、また布づくりを今年もしていきたく思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

真木千秋より




 

1月7日(火) 楽園ブレンド

 ねじまき雲来竹。
 今週金曜(10日)から始まるハギレ市に珈琲店を出店してもらうことになっている。
 今日はそのリハーサルだ。

 ねじ氏には昨年竹林の秋展にも出店してもらい好評を博している。
 このたびは前回とはやや趣を異にしている。
 活気溢れる新春初売りハギレ市にあわせ、プレスで珈琲を淹れるのだ。(写真左の淹れ方。前回はドリップ)

 プレスとドリップとは何が違うのか、ねじ氏に聞いてみた。氏いはく、フィルターを使わないので、珈琲豆のもつ旨味や雑味がそのまま現れ、よりプリミティブでワイルドな味わいなのだという。
 今回はカフェオレのみ。ブラックが好みの人は、ブラックでも頼める。このハギレ市にあわせ特別にブラジル、メキシコ、ペルーの豆を深煎りブレンドしたもので、その名も「パライソ・ブレンド」。(パライソとはパラダイスのこと)

 ところでこのねじ氏、珈琲についての蘊蓄はレギュラーのみにとどまらない。かなり広汎なのである。たとえば、一番ウマイ缶コーヒーは?とか、おススめボトルコーヒーは?とか、カレーの仕上げに付加すべきインスタントコーヒーは?とか。
 このあたりは本欄ではお伝えできないので、直接聞いていただきたい。
 ねじまき竹林珈琲店は、1月10日〜12日の三日間。


1月12日(日) 地機(じばた)づくり

ganga工房の織師マンガルとその奥さんである紡ぎ手バギィラティは、チベットに近い北インドの遊牧民の村で生まれ育ちました。
マンガルはもともと15年ほどヒマラヤ山中で羊を遊牧をしていました。その遊牧民が遊牧先のどこでも機織りができるようにと地機を作ったのではないかと思っています。

ganga工房のラケッシュは、私の織物の本や美術館などの展覧会などを見て、アフリカの織物にとても興味を示していました。
道具の少ないアフリカで、簡単な手作りの機を作ってしまう、そしてあんなに力強い布を作ってしまうことに、とても感激していました。
暮れからお正月にかけて、織師マンガルの指揮のもと突然gangaの庭に地機を作っていると聞いて私も大興奮しています。
どんなものが織れるのでしょう?今私はまだgangaに着いていませんが数日後にまたご連絡いたします。
地機でしか織れないなにか?が作れるのではないかとわくわくしています。

真木千秋より




1
糸で綜絖(そうこう)を作る。

 




2
糸綜絖づくり





3
地面に穴を堀り、木で必要なパーツを作る。

 


4
小屋の柱を立てる。

5 近所の農家に藁をもらいにいく。

 
6 垂木は竹製。

7 ganga工房が農家のように.....

 



8
お手伝い。




9
稲藁で屋根を葺く。
 
10 稲藁で屋根を葺く。


11 牛糞と赤土を混ぜて床ぬり。牛糞には繊維が入っているので床に亀裂が入りにくくなる。毎日でもメンテナンス可能。
 
12 小屋のできあがり。




13
遊牧民の経糸づくり。地面に棒を差し込んで.......。
 
14 手作りの糸綜絖に糸かけ。道具もすべて手作り。竹の筬(おさ)だけはアッサムで見つけたものを利用。


15 タテ糸を整える。

 

16
地機に臨むマンガル。


gangaに到着したらまた続きをお送りします。




 

1月14日(火) ハギレをちくちく

 ganga工房でもはぎれをちくちくしてポシェットを作っています。
色々な風合いの織り布をちくちくと縫い合わせると、凸凹もそれぞれ、サイズもそれぞれ…一枚として同じものにはなりませんが、そこが楽しいところです。
 ちょっとした手の仕事が必要な、このポシェットづくり......。
 ちくちくの後は上下を決めて端を縫い合わせる。そしてどんな顔にするのか、最後に見極めて底を縫う。
 ループ紐とくるみボタン(グンディ)を縫い付け、糸ループをつくっておしまい。
 今日はループ紐を作るために、まず布染めをしました。
 できあがりまでもう少し時間がかかりそうです。

 真木千秋より




 

1月28日(火) ガンガー・ブログ誕生!

 私ぱるば。早朝gangaスタジオ到着。
 昨日昼のJAL機で成田を出て、デリーからタクシーで約8時間。距離は三百kmないんだが、デリー市内の渋滞と、途中の悪路&濃霧で思いのほか時間がかかる。
 こちらgangaスタジオでは、真木千秋ほか、秋田由紀子、田村朋子の三人がラケッシュらインド人スタッフとともに仕事に励んでいる。

 左写真はアイロン台の上でパソコンをいじるラケッシュ。
 実は先日、ganga工房発のブログを開設したのだ。
 これは、主にラケッシュが英語で発信することになる。
 その第一号の記事がコレ。藍畑を作る話。
 写真一枚と文章が少々なんだけどね。ブログの書き始めって大抵こんなもん。だいたい英語はラケッシュにとっても外国語なわけだから(日本語のほうが上手)、みなさんも一緒に英語のお勉強と思っておつきあいいただけたらと思う。




 

1月29日(水) インドのトイレ

 昼過ぎ、新工房の敷地に出かける。
 現場では労働者たちが土掘りに勤しんでいた。
 トイレの工事だ。
 守衛室に次いで二番目の建物だ。

 ホントはインドの古典的トイレにしたかったのだが…。すなわち、背景の山で大空のもと、自由に致す。天然循環式だ。ヒマラヤの村々ではみんなそうしている。
 ま、しかし、みなさんも来るかもしれないからな。なかなかそういうわけにも行くまい。
 日本ではユンボ(機械)で掘るのだろうが、インドでは手掘りだ。インド人、思いのほか仕事が早い。
 ゲストとスタッフ用のトイレになる予定。






 

1月30日(木) 社会見学

 今、北インドは一番良い季節かもしれない。
 朝夕はチト冷えるけれども、日中は暑からず寒からず、日本の五月くらいの気候か。
 うららに晴れ渡った昼下がり、石工たちと連れだって、山上の街ナレンドラナガールに出かける。
 現在、新工房の建築現場にはスタジオ・ムンバイから石工が二人派遣されている。サリフルとマノハだ。建築家ビジョイ・ジェインの名代として建築作業の陣頭に立っている。言うなれば現場監督。インドの建築は石や煉瓦が主素材なので、木を扱う大工よりも、石工が中心になる。
 ganga工房から十数キロ離れた街ナレンドラナガールは、山の上にあって標高約千メートル。ここの商店街のアーケードが石造りということで、「見ておいで」とビジョイに言われたのだ。(写真上・例によって牛も居る)
 八十年ほど前の英国統治時代に造られたもので、当時はコンクリートの代わりにウラド豆(毛蔓小豆)が使われたりした。ウラド豆というのはカレーにもよく使われるインドの代表的な豆だ。
 表面は漆喰で仕上げられ、新工房もこのような佇まいになるらしい。(ただし、川石の粉を混ぜるので白色にはならない)

 下写真は帰りに寄った聖地リシケシ。ガンジス川(Ganga)のほとりにある街だ。
 ヒマラヤ山中にある氷河に源を発するGangaは、狭隘な谷を延々と蛇行し、ここリシケシで北インドの平原に姿を現す。このあたりではまだ清流の面影をとどめ、水は青く冷たい。
 ヨガ道場などで日本人の間でも名高いこの街リシケシは、ganga工房から一番近い街でもある。銀行や電話会社、携帯shopや機材店など、我々もなにくれとなくこの聖なる街のお世話になっているのである。






 

1月31日(金) 夕映えの守衛室

 夕方、現場に出かける。
 現工房から車で十分ほどなので、わりあい気軽に行かれるのが良い。
 入口近くに佇んでいるのが、守衛室。
 まだ土台と壁だけだ。
 土台は川石、壁は煉瓦。石や煉瓦の隙間を埋めるのは、通常はコンクリートだが、ここでは漆喰+砂だ。この隙間素材をインドでは「マサラ」と呼ぶ。美味しそうな名前だ。
 煉瓦壁は文字通り煉瓦色をしているが、完成時は別色を呈することになっている。どうなるかはお楽しみ。
 扉や窓の枠には沙羅の木を使う。沙羅はタッサーシルクの食樹でもあり、また葉っぱは皿にも使われる。我々にとっては縁の深い樹木だ。
 手前に見える二本の木はマンゴーの幼樹。植えてまだ五年ほどだ。放っておくとものすごい大木となり、夏場には格好の木陰を提供してくれる。もともと果樹園であったこの敷地には、数えてみたら七十数本のマンゴーがあった。

 土台の川石は、近所の川から採石したものだ。
 ただ、採石したものをそのまま使うわけではない。
 石工がハンマーで成型するのだ。
 写真の石工は現地採用なのだが、そもそもはネパールのカトマンズから来ているという。
 「なかなか良いウデをしている」とは現場監督サリフル(スタジオムンバイ石工)の弁。






 

2月1日(土) 限界に挑む女

 二月に突入したganga工房。
 朝起きると濃い朝霧に閉ざされ、いつになく寒々しい。
 濃霧は北インド、冬の名物で、しばしば飛行機の発着を妨げたりする。
 そんな朝霧も昼前にはすっかり消え去り、春の陽光が戻ってくる。

 工房の作業台にはとりどりの絹糸が並んでいる。(写真上)
 春のストール作りだ。
 「かわいい色合いでしょう」と真木千秋。
 しかし、「あぁ、もう限界!」という嘆きも。
 作業台が狭くて限界だというのだ。
 狭すぎて、黄色の糸巻きを五つも重ねたりしている。
 今にも崩れそうではないか。

 ご存知の通り、当スタジオは今、二十数年慣れ親しんで来た首都デリーの工房から、ここヒマラヤ山麓に引っ越そうとしている。
 それで二年前から新工房建設をスタートさせたのだが、そう簡単にはできない。
 その間はここganga工房で頑張るしかない。
 しかしながら、敷地や建物がささやかなので、だんだん場所がなくなってきたのだ。

 それでも、限られた資源を使って、いろいろ工夫してはいる。
 たとえば、畑の一角、塀際に土を盛り、棒杭を立て、稲藁で屋根を葺いて、ちょっとしたスペースを作る。(写真下)
 基本的に毎日晴れている冬場、ここは快適な作業場となる。
 今日は糸巻き場になっていた。これもまた、製織には欠かせない、大事な作業なのだ。
 それによってワリを食ったのが、ナニ(ラケッシュ祖母)。土台の犠牲となった畑はナニの領分であり、ジャガイモや菜っ葉など、丹精込めて作っていたのだ。そこをつぶされてしまった衝撃は大きく、しばらく畑仕事を休止してしまったほどだ。
 ナニの野菜にはよくお世話になっているので、我々にとっても複雑なところである。

 







 

2月3日(月) ムガの王国へ

 デリーから飛行機で東へ約二時間。
 インド東北部のアッサム州へ飛ぶ。
 機上左手には左手にはヒマラヤの峰嶺が美しい。
 上写真、中央はエベレスト、その右側やや尖っているのがマカルー。(たぶん)

 アッサムへ行くのはこれが三度目。二度目の前回からは二年半ぶりの訪問だ。
 今回は国際野蚕学会会長の赤井弘博士、蚕糸研究の大家である角田素行博士の随伴である。
 アッサム州というのは野蚕の王国と言われる。殊にムガ蚕、エリ蚕の故地であり、産出量はこの一州だけで世界のどこよりも多い。
 当スタジオも、同州のムガ蚕、エリ蚕にだいぶお世話になっている。

 両博士の来訪に合わせ、アッサム州都グワハティにある国立の研究機関・先進科学技術学院(IASST)でセミナーが開かれる。
 我々がデリーから到着して、昼食後すぐのことだ。題して、「ムガ蚕を中心とした蚕糸バイオテクノロジー・セミナー」
 赤井博士による野蚕研究概説、角田博士による絹糸腺の絹分解酵素紹介など、日印の蚕糸研究者による発表が十数本。
 本来なれば二〜三日かけて行うべき内容の研究発表が、半日に凝縮。インド側発表者の熱意もかなりなものだ。慣れない専門用語も頻出して全部はとても理解不可能だが、今後のアッサムの野蚕やシルク研究の動向を知る上でたいへん興味深いものだった。なにより、急遽設定されたセミナーを立派にやりとげてしまう当地研究者たちの能力・行動力は敬服もの。
 写真中、左から二番目が、今回我々の面倒を見てくれるインド中央絹局のジャヤプラカーシュ博士。彼は四年ほど前、竹林スタジオも訪れており、私ぱるばとは旧知の仲だ。ムガ蚕の研究者で、当時は故郷の南インド・アーンドラプラデシュ州勤務であったが、三年ほど前からここアッサムに赴任している。聞くところによると、もうじき、インド野蚕研究の中心機関であるジャールカンド州ランチーのタッサーシルク研究所の所長に就任するという。
 その右が角田、赤井の両博士。演壇に立つのが科学技術学院の院長。六時間以上におよぶセミナーの進行や発表はすべて英語。インド人の英語力には及ぶすべもないが、これを読んでいる若者諸君も今からしっかり勉強しておくべきであろう。

 下写真は講師の先導役などを務めた女子学生たち。いわゆるリケ女だ。さすがアッサムのリケ女、みんなムガシルクのサリーで身を固めている。よく見ると、ほとんどのサリーにハデハデしい刺繍が施されている。日本からの女性参加者いはく、「私たちじゃとっても着られないよね…。でも、ここアッサムでインド人が着るとすごくカワイイ…」とのことであった。
 しかし、ここアッサムでも、ムガシルクはたいへん高価なものである。果たして若い彼女たちの自前サリーなのであろうか? そこでひとりに聞いてみると、自前ではなく、友人の母親に借りたとのこと。
 あとで友人のレヘマン博士にそのことを話したら、その子はきっと州外の学生だろうと言う。アッサム州ではムガのサリーは各家庭に必ず一着はあるとのこと。少なくとも結婚時にはひとつ入手するものらしい。(正確に言うと、サリーではなく、アッサム特有のメケル・チャダル。上下分かれたツーピース)

 


2月4日(火) ムガ絹糸のできるまで


 アッサム滞在2日目。
 今日は一日かけて、州都グワハティ近郊の農村や町、隣州メガラヤのムガ蚕種生産場を回る。
 インドの至宝と呼ばれる超高級蚕種のムガ蚕。その名の通り世界でもインドのみに産し、中でもアッサム州の生産高は全体の9割以上を占める。
 日本に居たらなかなか接することのできないムガ蚕糸の生産現場を、本日撮影の写真によってお伝えしよう。


1 
州境を越えた隣州メガラヤにある、国立のムガ蚕種センター。
角田博士によれば、日本にもないくらいの整った環境だという。
ここではムガ蚕種が生産され、地元メガラヤやアッサムに供給される。植樹されている樹木は、ムガ蚕の主要な食樹であるソム樹。

 


2
羽化したばかりのムガ成虫。左が♂で右が♀。


3
交尾を終えた♀は、屋内の天井からぶらさがった藁束に産卵する。
 
4
ソム樹の圃場。樹齢7年ほどだが、定期的に剪定され樹高が押さえられている。上からネットをかぶせ、害虫など天敵を防ぐ。

5
ソム樹の葉を食べるムガ蚕の幼虫。長さ8cmほどでかなり大きくなっている。日本の天蚕やインドのタサール蚕の幼虫に似ているが、尾部にある目のような尾脚の発達が著しい。(下が頭部)
 
6
州都グワハティ近郊の農家。昨秋収穫のムガ秋蚕を、屋根の上や庭で天日乾燥させている。

7
ムガ生糸の手挽き。二人で組む。一方(右)は糸口を引き出し、もう一方(左)は生糸を挽く。挽き手は、木の円盤を回して糸を挽きながら、左前腕部で軽く撚りをかける。
 
8
電動の機械挽き。農村部は停電が多く、使えない場合も多い。手挽きと機械挽きの比率は半々くらいだという。機械挽きの糸は撚りが強くかかっているため、タテ糸に使われる。

9
カセ上げ機。機械挽きの糸をカセにしている。

 
10
ムガ生糸の三種。左から機械挽き、手挽き秋蚕、手挽き春蚕。
機械挽きは撚りが強いぶん輝きが鈍り、秋蚕は春蚕より色艶が良い。Makiとしては手挽き秋蚕糸を使いたい。


2月5日(水) エリ蚕のいろいろ

 アッサムはエリ蚕の故郷でもある。
 インドで産するエリ蚕の三分の二近くがここアッサム州産だ。
 州都グワハティから北東に100kmほど離れた、ブータン国境に接する地域は「ボドランド」と呼ばれる。
 少数民族ボド族の居住地であるボドランドは、アッサムの中でもエリ養蚕の盛んな地域だ。
 ボドランドでエリ養蚕の盛んな理由のひとつは、ボド族がエリ蚕のサナギを食用にするからだ。
 彼らにとってエリ蚕は、糸も採れるし、サナギも食えるし、二度おいしいのである。
 今日はそのボドランドにエリ養蚕を見に行く。


1 
ボドランドの農村。モンゴロイドのボド族はアッサム州最大の少数民族で、人口は百万を超えるという。

 












2
エリ蚕の最重要食樹である蓖麻(ひま)。高さは3メートルを超える。日本語でエリ蚕は「ヒマ蚕」とも呼ばれる。奥に見えるのが蚕室。


3
蚕室内。伝統的な養蚕法でエリ蚕の世話をする農家の主婦。ボド族はオレンジ色を好む。
 
4
吊した竹の上に刈り取ったヒマの葉を掛け、そこにエリ幼虫を這わせる。 こうした古い養蚕法は効率が悪いので、行政当局は蚕棚による平飼いを奨励している。


5
できあがった繭。エリ蚕の繭は上部に穴が開いているので、まずそこからサナギを引き出し、そして煮繭して糸を紡ぐ。従って糸挽きによる生糸は採れない。紡ぎ糸のみ。
 
6
珍しいエリ蚕の色繭。西部のコクラジャール地方が主産地。
色素は主にセリシンに含まれるため、精練するとそのほとんどが落ち、糸色は薄ベージュになる。赤井博士は精練の度合を調整するなどして、その色をなんとか保持できればと考えている。糸の使用側から言えば、この濃オレンジ色は使いづらいので、たとえば黄味だけ落として赤にするとか、逆に赤だけ落として黄色にするとかできればとか思う。(そんなに都合良くはいかないか!?)

7
ブータン国境に近いエリ蚕糸支所で出された昼食。皿の右側がムガ蚕サナギの揚げ物。家蚕やムガ蚕と違って煮繭に煮沸していないので、サナギ特有の臭みがなく、わりあいイケる。酒のつまみに良いかも。コップに入っているのはどぶろく(ライスビール)。
 
8
ブータン国境を越えて、数メートルほど中に入ったところ。これ以上はダメと言われる。記念に、民族衣装ゴーを来たお役人と一緒に写真を撮る。背景はブータン王国。




 

2月10日(月) 種まく人

 新工房の建設でいちばん進んでいるのが、畑かもしれない。
 まず、水を引いて地面をやわらげ、それからトラクターが入り大きく起こし、次いで牛が入って鋤で耕し、それから人が鍬を入れ、最後に牛で平らに均す。牛が活躍するのがインドならではだ。
 最初に蒔かれたのはインド藍。
 そして今日は山芋と綿花だ。
 蒔いているのはラケッシュ祖母。この人は緑の指を持っていて、何を蒔いても発芽率が良いのである。

 今日蒔いた綿花は、私ぱるばが昨秋、南インド・アンドラプラデシュ州のポンドルからもらってきたものだ。パサナ種という当地の在来種。はたしてここヒマラヤ山麓で育つか!?
 綿花はこのパサナ種のほか、ラケッシュ祖母がヒマラヤ山中から持参した種、および当スタジオキュレーター石田紀佳が日本から持参した種が蒔かれる予定。
 日本は大雪でたいへんだったようだが、ここ北インドも今日は寒い一日だった。

 


2月11日(火) 遊牧民キャンプを訪ねる

 ganga工房から十数キロのところに、遊牧民のキャンプがある。
 ここで、チベット系ボティア人を中心とした十家族ほどが、冬の間、羊や山羊とともに約四ヶ月、暮らしている。
 このボティアの人々から、私たちは羊毛を購入している。
 また、ganga工房の毛織職人マンガルも、かつて遊牧民として、八歳の頃から十数年、冬になるとここに滞在していた。

 ボティア人の根拠地は、ガンジス源流に近い標高2500mの村ハーシルだ。
 そのハーシルには、ボティア人に交じって、アーリア系のヒマーチャル人も住んでいた。西方から移住してきたヒマーチャル人は、製織の技を持っていた。そこで分業が成り立った。ボティア人が羊や山羊を追って糸を作り、ヒマーチャル人が機を織るのだ。

 今ganga工房で働くマンガルは、ヒマーチャル人であったが、子供の頃から動物が好きで、8歳の頃からボティア人に交じって遊牧に出かける。丸一年つとめると、褒美として羊一頭もらえたそうだ。丸二年つとめると更に二頭(つごう三頭)、丸三年で三頭(つごう六頭)もらえた。十数年つとめて自分の羊の数も百頭を超えたが、結婚して子供もできると、その規模では食べていかれない。それで織職人に転向する。冬の間、ここに機を持ち込んで織っていたこともあるという。そして四年ほど前からganga工房に合流するのであった。
 織の家に生まれながら遊牧民となり、また織に戻ったという具合。牧羊から毛織までウールのすべてを知る貴重な人間なのだ。

 というわけで、マンガルにとって、このキャンプ地は自分の故郷のようなものである。
 それで私たちもよく、マンガルの案内でキャンプを訪れる。前回は去年11月で、ボティア犬の雌、ハナを購入した。
 今回は象の出没情報もあるので、よくよく注意が必要だ。鉢合わせしたら落命の危険もある。


1 
涸川の川床から迫り上がった斜面にキャンプ地がある。斜面上に散在している黒い物体が住居。十年ほど前までは平らな場所でキャンプをしたが、象が出没するようになって、斜面に移る。マンガルを先頭にキャンプに入るMaki一行。

 



2
川床では、婦人たちがウールを編んだり、糸紡ぎの準備をしている。羊や山羊の群はジャングルの中に出払っている。


3
さっそく子羊を抱き上げるマンガル(左)。
まだ足腰の弱い子羊は、群の移動についていけないので、キャンプに残される。
 


4
持ち込んだ紡毛機で、黒羊の毛を紡ぐボティア婦人。



5
住居の中に招じ入れられる。床はなく、手製の絨毯を敷いてくれた。腰機で織ったものだという。住居の真ん中に囲炉裏が切られ、塩入りのバター茶を淹れてくれる。これがスープのようでなかなかイケる。
真木千秋の座っているラグは、この婦人が腰機で織ったもの。
 







6
毎年同じ場所に住居を構えるという。
壁や屋根はパプリ樹の枝葉で蔽う。屋根の上には黒ビニールをかぶせてある。
棟木の下の開口部は煙抜きであろう。

7
自分たちの作った織物や編み物を訪問者に販売もする。
まさに産直。

 
8
日向ぼっこをする遊牧民の長老たち。齢は八十超。マンガルのことは誕生時から知っているという。壮年や若者は羊群や牧羊犬とともにジャングルに出払っている。キャンプには電気がないので太陽電池を利用。
しかし、工房からこんな至近距離に遊牧民が生活しているなんて、ちょっと感動モノである。

2月13日(木) 地機(じばた)物語

 1月12日の当欄でもお伝えした地機。
 これはganga工房の織師マンガルが手作りしたものだ。
 そもそもマンガルがどうして地機を作れるのか。
 その背後にはなかなか面白い物語があるのであった。
 一昨日の当欄「遊牧民のキャンプを訪ねる」を併読してもらえれば、より分かり易いだろう。

 私たちのヒマラヤウールは、チベット系の遊牧民ボティア人から分けてもらっている。その根拠地は、ヒマラヤ山中ガンジス川源流にほど近い標高2500mほどのハーシルという村だ。そのボティア人たちは毎年秋になると、羊や山羊の群とともにガンジスの谷を下り、冬期の四ヶ月ほどはganga工房の近所、標高400mほどのリシケシ郊外で暮らす。
 牧羊を生業としているボティア人は、羊毛や毛糸は豊富に持っているが、織機は腰機(こしばた)しか知らなかった。
 アーリア系であるマンガルの父祖は、リシケシから四百kmほど北方、隣州ヒマーチャルプラデシュ州のキノール地方に住んでいた。山がちの同地は物資に乏しく、生活も容易ではなかったが、地機の技術があった。そこでヒマーチャル人は、冬になるとリシケシ近郊のボティア人キャンプ地に地機を抱えて出かけ、その地でボティア人と共に住みながら機を織ったのであった。
 そうしたヒマーチャル人の中には、ボティア人の根拠地ハーシルに移住し、そに留まって機織りをする人々も出てきた。冬になってボティア人がリシケシ近郊にキャンプを張ると、道具一式を持って同地に赴き、穴を掘り、地機を組み立て、機織りに勤しむのであった。マンガルの一族もそんなヒマーチャル人の一部であった。ヒマーチャル人にとって、地機は生活の糧であった。ボティア人には技術を教えなかったくらいだ。だからマンガルも地機が作れるのである。


1 
ウールでタテ糸を作るバギラティ(マンガル妻)。彼女もヒマーチャル系で、マンガルと同じく、ハーシルに生まれ育った。棒を地面に数本立て、簡単な道具でタテ糸を作る。これならキャンプ地でもできる。

 


2
巧みな指使いで、四枚の糸綜絖(そうこう)にタテ糸を通す。綜絖が四枚なのは綾を織るためだ。この糸綜絖もマンガルの手製。筬(おさ)はアッサムで見つけた竹筬。ここまでは女の仕事のようである。


3
アーリア社会では機に向かうのは通常、男の仕事だ。設計図に従って、最初の織り出しをするマンガル。彼によると、飛び杼を使う高機(たかばた)に比べ、地機の製織速度は七分の一だという。
 


4
高機で忙しいマンガルに代わって、バギラティが織る。地機の特長は、筬がヒモで吊されていること。木などで固定されている高機と違い、打ち込みの際、手で加減される度合が大きい。そのことが織上がりにも影響を与える。




5
左側、真木千秋の着用するのが、織り上がったばかりの記念すべきganga地機第一作。ヒモ付きウール腹巻き。「一度使ったら手離せなくなるよ」とバギラティ。右側、石田紀佳の手にするのは地機で試し織の布。

 
6
ウール腹巻きを首に巻いたところ。地機で織ると、よりふんわり仕上がる。綾織は糸が飛ぶが、その構造もふんわり効果を増幅する。しかし、生産性が高機の七分の一となると、果たして皆さんのお手許に届くかどうか…。





 

2月15日(土) 豪雪五日市 & 二月セール出直し

 東京・武蔵五日市からの情報によると、昨日からかつてない大雪のようだ。
 先週末も大雪で、五日市原住民のスタッフ酒井美和も「生まれて初めて」とか申していたが、昨日来の雪はそれを上回る豪雪だった模様。「これは都区内の人にはわからないでしょう…」。

 左側写真は、今朝、その酒井美和が万難を排して出勤し、撮影したもの。 通常は徒歩15分のところ、雪をかきわけかきわけ一時間かかってやっと到着。車は雪に埋まって出せる状態ではなかった。
 上が竹林駐車場、 下が竹林前の都道。
 JR五日市線は止まっているし、道路の走行は危険なので、本日土曜のshopは休業決定。
 明日の日曜も、たとえ電車開通しても駅からの道が難儀だし、車に関しては車道も駐車場も保証の限りではないので、やはり休業決定。みなさん、明日たとえ好天でも、くれぐれもお越しにならないよう。
 昨金曜日は二月セールの初日であったが、降雪でほとんど来客もなく、せっかくの展示も手つかずのまま。そこで明16日の日曜は、出勤スタッフが一日かけて除雪に励む所存。
 そして、二月セールは17日(月曜日)に出直しオープンということに致したいので、みなさんよろしく!!

 シンクロでもあるまいが、ずっと好天続きだったここ北インドも、昨日は一日中、冷たい冬の雨降りであった。今朝にはようやく雨も上がったが、遠い山の頂は雪化粧している。
 これら山々はおそらく標高二千メートルほどの、前座の前座。そのずっと奥には万年雪を頂くヒマラヤの主峰が連なっている。(ここからは見えないが)

 
 

 


2月17日(月) 春のタテ糸

 こちら北インドはすっかり春。
 庭の菜園では、エンドウ豆、春菊、ホウレン草、サラダ菜、ジャガイモまで採れる。
 (雪に埋まっているであろう我が畑とはえらい違い)
 そして工房では春色ストールのタテ糸づくりがたけなわである。


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これは五日前。ピンク系のシルクストールのタテ糸づくり。赤とオレンジはアカネ、紫はラックダイ、黄色はハーシンガー、緑はフクギ+藍、黄緑はフクギ+藍生葉、グレーはメヘンディ、黄金はムガ蚕。

 


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そうしてできたタテ糸を、本日、機にかける。


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タテ糸のサンプルを見ながら、ヨコ糸を設計。
 


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織師の手にあるのがヨコ糸サンプル。それを見ながらヨコ糸を巻き取る。




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今日はもうひとつ、青系シルクストールのタテを作る。

 
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青系シルクストールのタテ糸。青は藍、その他、差し色に赤、黄、緑などいろいろな絹糸。左端はムガ蚕。「西表島の珊瑚礁みたい」とは真木千秋の感想。お楽しみに!!


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2月18日(火) 壁の色

 新工房の壁の色。
 これが目下の大問題である。
 
 インドの建物は、だいたい煉瓦造りだ。
 ことに住宅に関していえば、どこも煉瓦を積み上げてできている。いちばん安価で入手しやすい建材なのだ。
 だから、たとえば日本で大工の棟梁といえば木で家を造る人だが、インドでは煉瓦で家を造る人ということになる。
 煉瓦というのは、今から四千年以上前のインダス文明の頃から使われてきた、当地の代表的な建材だ。
 今でもインドの田舎をちょっと走ると、いたるところに煉瓦工場がある。おそらく、その辺の土をちょっと焼けば煉瓦になるのであろう。

 新工房の現場には、スタジオムンバイからそうした棟梁が二人送られてきている。
 シャリフルとマノハだ。
 彼らはこちらに常駐し、建築の陣頭指揮を執っている。
 予算の限られた当プロジェクトも、主要建材は煉瓦。
 通常インドの住宅は、煉瓦作りの上にモルタルで仕上げ、その上にカラフルなペンキで塗装を施す。
 しかし、当プロジェクトは、モルタル仕上げをしない。

 では壁の色はどうするか。
 オレなんか煉瓦のままでも良いと思うのだが、真木千秋はそうではないらしい。
 そこで昨年、一計を案じる。
 川石を粉砕し、石粉で煉瓦に表面塗装を施そうというのだ。

 しかしながら、おそらくは予算と工期の都合であろうが、いつのまにか顔料を調合して塗装するという具合になっていた。
 写真1がそれ。これは一週間ほど前のことだ。
 棟梁のシャリフル君が何日もかけて頑張っていた。
 手前に並んでいる煉瓦の上に見えるのが、調合した色のサンプル。

 ただ、顔料だと、色合いはキレイだが、イマイチしっくり来ない。
 やはり石粉の方が良いのではないか…!?
 ということで、急遽、試してもらうことになった。
 写真2は石粉づくり。右端人物が川石を割り、左端人物がスリコギで粉砕し、左から二番目が更に細かく擂(す)り、その右側人物が布で振るう。(その右側の帽子が真木千秋)

 そうしてできた石粉が、写真3の左端。
 その石粉を使ってシャリフル君がサンプルづくり。
 石粉と水と糊料で塗料を作り、そこに煉瓦を浸す。
 左端の煉瓦が顔料で塗装したもの。それ以外は石粉塗装だ。浸す回数によっても色が変わる。真ん中の煉瓦の上に載っている石が、天井に使う石だ。この石は先日ビジョイとともに砂漠のラジャスタン州に赴き、見つけてきたもの。

 石は粉砕すると白っぽくなる。
 それゆえ、左端の顔料塗装に比べると色が明るい。
 しかし、顔料に比べるとキメが粗いこともあり、より自然なたたずまいだ。

 写真4は石粉塗装の煉瓦を積み上げて見せるシャリフル君。下の塗装サンプルほど濃色だ。
 下方サンプルくらいの色だったらOKであろう。
 それで真木千秋もついにゴーサインを出す。
 なかなか難しいクライアントである。

 そもそも弊工房はおそらく、スタジオ・ムンバイ設計史上、最低予算のクライアントであろう。
 しかし、だからと言って、ビジョイは決して手を抜いたりしない。それどころか、常にも増して力を入れているらしい。やっぱりちょっと変な人なのだ。
 今日も私がシャリフルに、「ウチはいちばん貧乏なクライアントだよね」と言ったら、シャリフル答えて曰く、「いいえ、いちばん大きなクライアントです」だと。(社交辞令!?)
 

 


 

2月19日(水) チクチクの原点

 ganga工房ではいろんなモノが作られている。
 そのひとつが、この「チクチク布」。
 竹林shopでも息の長い人気商品だ。

 じつはganga工房でいちばん長い歴史を持つのも、このチクチク布。
 今を去る七年前、まだganga工房が当地にできる以前から作られている。
 その中心人物が、サビータだ。(写真中の人物)
 当時デリー在住の彼女に真木千秋が布を渡し、作ってもらっていた。

 ここヒマラヤ山麓に工房ができ、サビータ一家も縁あって転居してくる。
 夫のアショクも工房スタッフだ。
 昨年、この夫婦に第二子が誕生する。
 ナビアという娘だ。上写真で秋田由紀子の抱いているのがそれ。
 色白で将来有望ともっぱらの評判。(インドでは色白が美女の一条件なので日本人はみんな美人!?)。上着は大村恭子家から来たお下がりだ。

 上写真は真木千秋と打ち合わせ。
 布を渡され、それをサビータがデザインし、お針子にチクチク縫ってもらう。
 原材料の多くはハギレだ。
 バッグ、敷き布、ティーマット、コースター、ポシェットなど、いろいろなものに姿を変える。

 中写真は、七年前のチクチク布。
 原点を思い出そうと、真木千秋が日本から持参したもの。
 その隣の、黒っぽい小型チクチクは、ループ付きの鍋つかみ。

 下写真は現在製作中のチクチク布。
 濃色布は、これからPCバッグになる予定。わかりやすいようにノートパソコンを添えてみた。
 左上の白系は、衣のポケットになる。


 

2月20日(木) 漆喰ワーク

 新工房の特徴のひとつは、漆喰(しっくい)を使うこと。
 通常コンクリートを使う部分のすべてが、漆喰だ。
 近所の工場で造られた石灰に、水と骨材(砂)を混ぜて使う。(写真左上)
 日本の Maki Textile も、竹林shopやスタジオ、アトリエに漆喰を使っている。
 スタジオ・ムンバイもよく漆喰を使って建物を作る。
 それで両者一致で漆喰の使用ということに相成った。
 川石を使う土台も(写真左中)、煉瓦を使う壁も(写真左下)、漆喰で固める。

 棟梁のシャリフル(写真左下・真ん中の人物)に聞くと、漆喰の長所は、セメントに比べ、耐久性のあること。そして、夏は涼しく、冬は暖かいのだそうだ。私もちょっと調べてみたが、漆喰はセメントに比べ、吸放湿性に優れている。(このあたり、タッサーシルクなど多孔質の野蚕糸に通じるものがある)
 
 ただ、欠点もある。
 その第一は、硬化時間が長いということ。
 シャリフルによると、セメントは二日で硬化するが、漆喰が完全に硬化するには三ヶ月かかるとのこと。三ヶ月経てばセメントより硬くなるそうだ。

 これがまた施工業者泣かせの点である。
 漆喰で建築する施主なんて滅多にいないから、請負業者もなかなか計算が立たない。
 乾くまで次の仕事にかかれないから、どうしても人手が余ってしまう。
 それで仕方なしに畑を作ってもらったり。(右写真)
 おかげで、当プロジェクトの中でいちばん作業の進んでいるのが、菜園というわけ。
 もう春もたけなわだから、タマネギとか、大根とか、豆とか、いろんな野菜の芽が出ている。
 もちろん、元来が果樹園だから、マンゴーや波羅蜜(ジャックフルーツ)の手入れも怠りない。
 今こねまわしている漆喰がガチンコに硬化する頃には、労働者も含め一同、食うものには困らないかも。


 

2月22日(土) チットとパット

 新工房の壁。
 その色はだいたい決定した。
 2月18日の当欄に見るごとく、川石を砕いたネズミ色だ。
 残る問題は、構造をどうするか。

 選択肢が二つある。
 チットとパットだ。
 チットというのは普通の工法で、煉瓦を隙間なく積む。
 パットというのは、中に空洞を作る積み方だ。

 そのサンプルを今、スタジオムンバイの棟梁たちが作っている。
 上写真、左側がパット、右側がチット。
 右側チットはまだ仕上げが完成していない。
 よく見るとわかる通り、チットは平積みなのに対し、パットは横に立てて積んでいる。それで、パットの方が煉瓦が大きく見える。
 中写真に見るごとく、手前チットは充実し、奥のパットには空洞がある。

 それぞれ長所がある。
 チットは充実している分、より強靱だ。そして、作業が単純で、職人たちも慣れているので、進行が早い。
 パットは、空洞がある分、外気温の遮断性に優れる。そして、煉瓦の使用量も二十数%少なくて済む。

 それから外見。
 まだチットが完成していないから公平な比較はできないのであるが、真木千秋はパットの方を気に入っている。煉瓦が大きく見え、土台の石とのバランスも良い。
 ビジョイもパットがおススメだ。

 というわけで、おそらくパットが採用されることになるであろう。
 新工房の外側は、きっと下写真のようになると想像される。
 なかなか美麗ではあるまいか。
 ただし、漆喰を使用し、更に手間のかかるパットを採用したら、工期はどうなるのであろうか?



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2月27日(木) ミゾラムの腰布

 今月初め、縁あって、インド北東部・ミゾラム州を訪ねる。
 左上の図版1、赤ピンが首都デリー、緑ピンがganga工房、そしてずっと右手の紫ピンがミゾラムだ。
 バングラデシュとミャンマーに挟まれて、こんなところまでインド!?というような場所にある。「ミゾラムなんて聞いたことない」というアナタもご心配なく。インド人ですら知らなかったりするのだ。1986年にアッサム州から分離した、比較的新しい州だ。
 州の全域にわたって畳々たる山また山。わが「山国信州」を遥かに凌駕する山国度で、平地はほとんどない。住民のほとんどはモンゴル系のミゾ人で、ミゾラムとは「ミゾの土地」という意味だ。よほどミゾ人は山好きなのかと思うが、本当のところはおそらく、あまりに山過ぎてアーリア人はじめ他の民族は入り込まなかったのだろう。
 単民族、単言語(ミゾ語)、単宗教(キリスト教)のおかげで、同州の治安および教育の水準は、全インドの中でも指折りだ。その治安と固有の文化を保つため、外国人はもとより同州民以外のインド人にも入境制限がかけられている。
 同じモンゴル族ということで、日本人に対する好感度は非常に高い。察するに、アーリア族支配のインドにおいてモンゴル系インド人の社会的地位はやや低く、その中にあって「世界最先端の科学技術を誇る日本」は希望の星なのであろう。最近それもいささかアヤシくなってきたようだが、ともあれ彼らの期待に添うべく刻苦勉励せねばと思うものである。(同族なる日中韓もケンカしている場合ではあるまい)

 さて、友人であるミゾラム人の野蚕研究者パッチャウ博士に、一泊二日で、とある村に連れていってもらった。州都アイゾールから車で4時間ほどの山中にあって(どこも山中だが)、ムガ蚕の飼育を試みている村だ。生業は焼畑農業だが、その生産性は低く、また環境負荷も大きい。なんとか「産業構造」の転換を図りたいという博士の思いもあり、村人たちは養蚕にチャレンジしている。
 日本の戦前あたりにタイムスリップしたような山村の生活は、様々な点で実に興味深い。ただ、ひとつだけ興味深くなかったのが、村人たちの衣服だ。こればかりは日本の昭和四十年代といったところ。
 昔の手織布は無いの?と聞くと、村中総出で探し出してくれた。

 そのうちの二点(写真2&3)。
 おそらく行李の下にでも入っていたのだろうが、少女用のHmaram(マラム)。50×120ほどの布だ。木綿の手紡ぎ手織り、藍染だ。腰機で織ったものだろう。原料から染織まですべて自給自足であったと思われる。
 2と3のマラムは模様が違うことに注目。

 写真4は村娘に写真3のマラムを着用してもらったところ。
 七十代であろう老婦人に「若い頃はこんなふうだった?」と聞くと、「私らは着たことがない」という。「いつ頃まで着てたの?」と聞くと、「私の母親の頃まで着ていたようだ」とのこと。おそらく百年ほど前に廃れてしまったのだろう。ちょうど英国統治時代で、キリスト教も入り込み、衣食住の中でも服飾文化に一番大きな変化が訪れたと思われる。今はこうしたマラムは祭の際にのみ着用されるようだ。(ただしこの秘蔵マラムは使われていない模様)。そのほか茶綿を使った織物もあった。
 現在は木綿も藍も栽培されていない。どんな藍草だったか気になるところだが、残念ながら確認できなかった。
 
 少女が大人になると、プアンと呼ばれるカラフルな丈の長いサロンを着用する。
 ただ、現在はこれらも工業製品的な趣で、ここでご紹介するほどのものでもない。
 かつてはそうしたプアン(サロン)も日々の生活の中で手織されたものだろう。
 最近は、藍染も含め、そうした村々の手仕事を再興しようという動きもあるので、養蚕とともに今後の展開を見守りたい。



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4月5日(土) 天竺・土に生きる

 早朝、デリーに到着。
 そのまま車で北部のganga工房に向かう。
 工房への道中、ところどころに、大きな煙突が見える。
 煉瓦を作っているのだ。

 煉瓦の原料は土だ。
 まず土をこねて、型を取る
 その作業場が写真1だ。
 畑だったところを掘り、その土を使っている。
 1メートルほど掘り下げてあった。
 特別な土ではなく、どこにでもある黄色の畑土だ。資源量は無尽蔵と言えるかもしれない。
 その土を、四角い型に嵌めて、成型し、乾燥させる。(写真2)
 言うなれば日干し煉瓦だ。
 上部にはヒンディー語でガガンという刻印がある。
 これは煉瓦の1ブランドであり、一番良質で高価とされる。
 写真の作業場では、一日五千個の日干し煉瓦が作られていた。
 別にガガン社の直営というわけではなく、農民の一家が作業にあたっていた。きっとガガン社と契約しているのだろう。
 雨の降らない、夏の間だけの作業だ。(インドは3月から夏)

 こうしてできた日干し煉瓦は、煉瓦工場に運び込まれ、焼成される。
 焼成工場は巨大な煙突が目印だ。
 デリーの北、ganga工房へ向かう道筋には、そうした煙突がにょきにょきと生えている。(写真右)

 この工場では、煙突を巡って、馬蹄形に焼成窯が作られている。
 朝、日干し煉瓦を満載した牛車が次々にやってくる。その日干し煉瓦を、隙間を作りながら積み上げる。(写真3)。さながら古代の建築物のようだ。
 隙間には木炭を詰め込み、上部の穴に鉄製のフタをかぶせ、全体を土で蔽う。
 火をつけた後、上部の穴から燃料のおがくずを入れる。(写真4)
 おがくず入れは朝の7時から夜の7時までの作業だ。
 馬蹄形の隅から順次、焼成していく。一個の煉瓦の焼成時間は二時間ほど。最終的に窯から取り出されるのは一週間ほど後のことだが、そのときまでには黄色い日干し煉瓦が赤味を帯びたレンガ色に変色している。
 この焼成工場では一日6万個の煉瓦を焼成するという。ということは、上記の規模の成型業者12軒分ということになる。
 この工場の煉瓦もガガンであった。ganga新工房の建築に使われる煉瓦もガガン印のものだから、このあたりから来ているのかもしれない。

 日干し煉瓦にしろ、焼成煉瓦にしろ、インダス文明の頃には既に存在していたインド伝統の建材である。
 今でもインドの住宅や小規模建物物は、ほとんど煉瓦で作られている。
 もとは畑の土だったというわけだ。
 食のみならず住もまた、土が基本の天竺国である。







 

4月6日(日) 建物の様式

 昨日から、スタジオムンバイの建築家ビジョイ・ジェイン一行がganga工房に来ている。
 インド西部ムンバイ近郊のスタジオから船や飛行機を乗り継ぎ、月に1〜2度の来訪だ。はるばる遠くからやって来るので、毎回、三日から四日、みっちりと仕事をして行く。多忙なスケジュールを縫っての来訪だから、こちらも合わせるのがなかなか大変だったりする。

 写真上は、今朝。
 ビジョイの運転で一緒に現場に向かっている時のひとコマ。
 三輪タクシーの後部に、猿が二匹乗っている。
 このあたりはけっこう猿だらけなのだ。ニホンザルに似たアカゲザル。
 日本だったらちょっとした騒ぎになるんだろうが、こちらでは別になんてこともない。でもタクシーの中に座っているのは、ちと珍しいかも。ビジョイ(写真の人物)も「ホラ見て!」とか言っていた。

 現場はゆっくり作業が続いている。
 ま、インドだからね、進んでいるだけでも良しとしなければ。
 写真中は新工房のゲート。外側から写したものだ。ホントはゲートレスゲート(無門関)と洒落たいところだが、この国では門がないとやたらに人々が入ってくる。
 だからチェックポイントは必須。それでもできるだけ開放的にしようと、高さを低めにする。写真を拡大するとわかるが、画面の右半分、顔くらいの高さに渡された白ヒモが主要部の高さになる。左半分は左端の石壁の高さとなる。ビジョイ(黒シャツ)の立っているあたりの石壁に丸く穴があけられ、鐘がつるされるんだそうだ。

 写真下はギャラリー。
 基礎工事の始まったところだ。
 サイズはちょうど竹林母屋二階と同じくらい。
 竹林母屋二階といったら、だいたい50畳敷きだ。
 かなり大きい。
 ビジョイによると、フマユーン様式の石造りになる。
 フマユーンというのはムガール朝の皇帝で、デリーの名所フマユーン廟に見られるがごとく、石造りが特徴だ。
 ビジョイの背後にメインの工房ができる。工房はアクバル様式だ。アクバルというのはやはりムガールの皇帝。この時代には煉瓦を使って建物が建てられた。
 というわけで、新工房もいろいろな様式が生かされることになる。

 現在のganga工房は非公開だが、新工房にはギャラリーができるわけだから、その部分は少なくとも公開になる。だから、アナタも来ていいわけだ。出来上がったらの話だが。
 今日のビジョイによれば、来年の今ごろにはぼつぼつ完成も見えてくるらしい。
 
 





 

4月7日(月) 木石

 ビジョイは毎回、いろんな人々を連れてくる。
 今回も二人ほど、面白そうな人がやってきた。

 ひとりはデザイナーのカビータ。(写真上・左側人物)。そもそもはグラフィックの人だが、園芸についてもかなりのセンスを持ち合わせている。彼女の自宅庭を見たビジョイが、このプロジェクトに加わらないかと誘ったわけだ。
 この三日間、カビータを敷地のあちこちに連れ回し、いろいろ詳しく説明するビジョイ。彼にとっては敷地の木、一本一本が大事なのだ。
 もともと生えている木は極力そのまま生かし、新たに植える場所と木の種類をいろいろ考える。何か欲しい木はないかとカビータに聞かれたので、バナナ!と即答する。インドのバナナはすこぶる美味なのだ。椰子の木も欲しかったが、それは却下された。このあたりでは無理なんだそうだ。ドリアンとかマンゴスチンも欲しいが、ま、無理だろう。写真はとある果実の匂いを真木千秋に嗅がすカビータ。

 もうひとりは石屋のラメッシュ。
 インド北西部、ラジャスタン州からやってくる。
 ラジャスタンと言えば石材で有名だ。今年1月には真木千秋たちもビジョイと一緒に同州を訪ねている。
 ビジョイは新工房にラジャスタンから板状の石材を取り寄せて使おうと考えている。
 それでラメッシュを呼んだのだが、昨日、ひとつひらめいたようだ。天井板などに大理石を使おう!
 大理石というと日本ではかなり贅沢なのだが、ラジャスタン州はその大産地。使いようによっては、木材などよりぐっと廉価だったりする。
 敷地に運び込まれた川石の中から、これとこれが大理石だよと示すラメッシュ(写真下・右側)。真木千秋が指さすのがピンクの大理石。ラメッシュの指さすのがグレーの大理石。近所の川から採石されたものだが、川上にも大理石の鉱脈があるのだろう。
 ラジャスタンにある大理石の石切場を訪ねてみたいものだ。





 

4月8日(火) 色の名は…

 昨日午後、建築家のビジョイ一行が去り、またいつもの営みが始まったganga工房。
 4月といえば、ここ北インドはもはや夏。
 強烈な陽光が降り注ぎ、気温は35℃くらいまで上昇する。
 ただ、湿度が低いので、日陰は快適だ。

 上写真は、軒下で色を見る真木千秋。
 大理石のひんやり感が心地良い。
 右上に、もはや中型犬くらいに成長したハナが昼寝している。(生後半年)
 とりどりの糸は、草木で染めた絹糸。フルオライトと呼ばれる夏用のストールになる。

 そんな千秋のもとに、ディシャが現れる。(生後三年)
 ギッタ(糸巻き)をひとつひとつ手にとっては、ヒンディー語と英語で色の名前を言う。
 インドではもうこの時期から英語のお勉強だ。
 今手にしているのは藍染の糸。(写真下)
 驚くべきことに、BLUEのLがしっかり発音されている。アナタみたいにRだかLだか不明ということはない。
 ま、「三つ子の魂…」と言うごとく、この頃しっかり身につけないと、生涯ダメなのかも。
 インド人の場合、たとえばヒンディー語にもLとRの区別があるから、自然に習得するわけだ。

 ともあれ、そんな言葉のお勉強もわずか数分。
 そのうちネタ切れになり、今度は両手でギッタをひっかき回し始める。
 かなりのお転婆なのだ。(母親似!?)
 助けを呼ぶ千秋に、その母親が駆けつけ、たちまち拉致。
 ディシャ、叫喚のうちに退場するのであった。
 ganga工房の日常風景。
 





 

4月10日(木) カリスマ織師の来し方

 サジャッドという織師がいる。
 昨年、デリー工房からここganga工房に移ってきた。
 真木千秋の最も信頼厚い織師として、ご存知の方、あるいは製作品を持っている方も多かろう。

 当年とって41歳。インド東部のビハール州(現在ジャールカンド州)の機織りの村に生まれる。両親とも機を織り、自分も10歳の頃には機に向かっていたそうだ。ところが11歳で親に死別。12歳からは東北部のアッサム州に赴き、自村の織物を売って歩く。そんな生活を八年続けたという苦労人だ。そして小金を貯めて村に小さな店を開く。しかしそれもあまりうまくいかなかったようで、一年後、デリーの工房に加入する。
 デリー工房の経営者は、Makiのパートナーでもあるテキスタイル・デザイナーのニルー・クマール。その手織工房はデリーでもいちばん品質管理の厳しい工房として、織工たちの間でもちょっと恐れられていた。そんなところに飛び込んだサジャッド。やせっぽちの二十歳(ハタチ)で、知り合いもおらず、「こんな若造に織れるもんか」と周囲の織工たちに笑われたそうだ。ところが、試しにタテ糸をひとつふたつ織らせたニルー、そのウデをしっかと見抜く。そして、チアキに向いているのではないかということで、爾来、Maki専属の職人として機を織る。
 下写真がちょうど出会った頃の写真。1993年夏。二十歳のサジャッド(左側)と三十代の真木千秋(ぼやけているが)。Maki専属になり、継続して仕事がもらえることで、やっと彼の生活も安定する。
 その後ほどなく結婚し、一女三男を儲ける。

 その一番上の娘ファリダが、この秋に結婚するという。幼い頃からよく母親を助けて家族の面倒を見てきた健気な娘も、もうじき十八。相手は同じ村の鍛冶職人。村では名のある家だそうで、嫁に出すのは悲しいが、良い縁談だとサジャッドは喜んでいる。
 インドでは娘を嫁がせるのは物入りだ。ダウリ(持参金)の習慣がある。サジャッドによれば、三年くらい働いて貯めないと嫁に出せないほどだが、相手方が持参金は要らないというので有難い。それでも空身じゃ娘も肩身が狭かろうから、今は朝の8時から夜の8時まで、がんばって機に向かうサジャッドである。

 名前からも察せられる通り、イスラム教徒だ。酒も飲まない。
 ganga工房では周囲はほとんどヒンドゥー教徒(&仏教徒)で、何か困ることはないかと聞くと、ぜんぜん無いとのこと。
 家族的な暖かい雰囲気で働きやすい、と言うサジャッドであった。
 



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4月11日(金) 地機の昨今

 当工房で最も新しいテクノロジー。地機。(じばた)
 二ヶ月前の当欄でもご紹介したが、地面に穴を掘って設置する素朴な機だ。
 昨年末に組み立てられて以来、バギラティの機として活躍している。(バギラティというのは、織師マンガルの妻。遊牧民の村で生まれ育ち、幼時から地機に親しんでいる)。地機は簡単に解体/運搬ができる。遊牧生活には好適だ。
 ganga工房の地機が今どんな具合か、ちょっとご紹介しよう。

 写真1。
 タテ糸づくり。
 通常、工房では回転式の大きな整経機でタテ糸を作る。整経機は場所を取るし、そもそも持ち運びできない。遊牧民の方式は、ただ、地面に棒を立てるだけだ。
 ganga工房にとっても、これは有難い。というのも、現在、整経機は一台しかなく、だいたい他機のタテ糸づくりのためにふさがっているからだ。
 二ヶ月前の試織の際は二往復だったタテ糸も、今は本製作なので長くなり、六往復。
 長い棒を使って器用にタテ糸を作っていく。

 写真2
 綜絖&筬通し。
 タテ糸ができたら、それを地機の綜絖(そうこう)と筬(おさ)に通す。
 バギラティ(左)の手前にある白い物体が綜絖。木綿糸でできており、四枚使用する。
四枚使うことで、綾織ができる。
 この四枚の糸綜絖に、何の道具も使わず、手指でタテ糸を通していく。
 四本の糸をそれぞれの綜絖に通し終わると、それを助手(右側)の手助けで筬(おさ)に通す。
 助手のいない場合はひとりでやる。まずタテ糸を全部綜絖に通し、しかる後、筬に通す。やはり助手のいた方が早い。

 写真3
 ヨコ糸準備。
 通常の高機(たかばた)の場合、ヨコ糸は管に巻いて杼(ひ)の中に収める。
 ところが、この地機の場合、管に巻かずに、糸をそのまま杼の中に収める。杼は写真の手前に見える黒い物体で、中が空洞だ。その中にどうやってヨコ糸を収めるかというと、まず長い棒にヨコ糸を撚りかけ(写真の作業)、それを杼の中に押し込む。
 ヨコ糸が仕込まれたら、織が始まる。
 注目(いや注耳)すべきは、音が静かだということだ。カッタンコットンという機音はしない。アレは高機の音なのだ。控え目なたたずまい、それが地機だ。

 写真4
 地機で織った最新作。
 絹100%のマフラー。家蚕、エリ蚕、ムガ蚕を配合。
 タテ糸はツートン。左側をメヘンディ(ヘナ)で染めている。
 拡大して見ると、斜めの杉綾(ヘリンボーン)模様が出ている。
 20cm×120cm。男も女も、赤子も老人も。春も夏も、秋も冬も。
 すこぶる柔らか。これは地機の特製であろうか!?
 (高機と織り比べないとわからないが)







 

4月12日(土) 工房の園

 新工房の敷地はもと果樹園や畑だった。
 工房建設の傍ら、少しずつ畑も作っている。
 今朝は綿花を植えようと出かける。

 年初に五種類ほど綿花の種を蒔く。
 ヒマラヤ種、南インド種、日本種、アメリカ種など。
 それが芽吹き、だいぶ成長してきたので移植しようというわけだ。
 上写真の鉢植えがその綿花苗。
 ただ、日中の陽差しが強烈なので、移植は夕方の方が良いようだ。
 それで現地スタッフ(近所の農民)に託すことにする。

 昨夏、種を蒔いて育っているものもある。
 インド藍だ。
 木藍とも呼ばれるマメ科の小灌木。
 一度芽生えたら何年も生きるので便利だ。(私ぱるばは東京五日市でタデ藍を栽培しているが、毎年種まきで苦労している)
 中写真にたくさん写っている小さな葉っぱの植物がそのインド藍。
 主に南インドから持ってきた種を蒔いたものだが、一部、沖縄・西表産のものもある。これもだいぶ成長してきたので、そろそろ分植が必要だろう。
 ところで、真木千秋は別に花摘みをしているのではない。写真中の紫色の花は、現地で「おばけ草」と呼ばれるキク科の雑草。強靱な繁殖力と、牛も食わない不味さにより、そこらじゅうに繁茂している。キク科花粉にアレルギーのある私やラケッシュには大敵だ。ただ圧倒的な勢力を持つ「おばけ」には勝てそうもないから、こちらの体質改善が必要かも。誰か良い方法をご存知ないだろうか?

 敷地に七十数本あるマンゴー。
 花期も終わり、小さな実をつけ始める。
 今のところ、5mmほどだ。(下写真)
 先月、病害虫が発生したようだが、有機栽培を心懸けているので、農薬を使わず撃退する方法を採っている。
 マンゴーにもいろんな品種があって、これはデセリ種。食べ頃は6月か。
 6月というと高温多湿で、北インドでは最も厳しい月だ。しかしデラドン名産「茘枝」の実る季節でもあるし、なんとか戻ってきたいものだ。

 





 

4月13日(日) Tambaの復活

 今日は日曜。
 ganga工房も通常は休みだ。
 しかしながら、真木千秋+スタッフ3名が日本から来ているので、みんな日曜返上で働いているというわけ。

 さて、Tambaという名のストールがある。
 語源は丹波。
 そもそもは真木千秋が十年ほど前、丹波木綿の格子柄に着想を得て作ったものだ。
 デリー工房での作。織師はサジャッド。
 かなり面倒な織なので、他の職人はやりたがらない。このサジャッドだけは、真木千秋がどんな注文を出しても応じてくれるのだった。
 そのサジャッドとともに数年間、タテ糸にして六〜七本、色を変えつつtambaを作っただろうか。しかし、しばらくして途絶えてしまう。温暖化のせいか、この季節、デリー工房が暑すぎて、真木千秋が作業に耐えられなかったのだ。(寄る年波!?)

 ここganga工房は、緯度&標高のせいもあって、デリー工房よりかなり涼しい。職住接近で楽だし。それで真木千秋も何年かぶりにtambaを復活させようという気になったのだ。

 上写真は十年前のオリジナルサンプルを参照しつつ、タテ糸をつくっているところ。
 絹100%で、藍やメヘンディで染めている。

 下写真は、できあがったタテ糸を、機の上から垂らし、サジャッドとともに仕込んでいるところ。
 tambaは平織をベースにして、ところどころに細い綾が入る。綾の入る部分に赤糸で印をつける。綾の分量で表情が一変するので、真木千秋はもとより、普段はクールなサジャッドも真剣な表情だ。







 

4月14日(月) 天竺土産

 今年のゴールデンウィーク(4月29日〜5月5日)、東京のMaki Textile Studioで開催予定のカディと初夏の布展
 期間中、竹林母屋では「唐天竺(からてんじく)の旅みやげ」というコーナーが設けられる。
 今日はその旅みやげ天竺篇の買い物だ。場所は近所のなんでも屋さん。
 じつは真木千秋、この店の前は何百回と往来しているのだが、今まで入ったことがなかった。(私ぱるばは髭剃りとか歯磨きとか買ったことがある)
 さて、どんなものを商っているのだろう?

 間口一間ほどの小さな店だが、食料品から化粧品、装身具から嗜好品まで、ありとあらゆるものが置いてある。
 左上写真の真木千秋、何か見つけたようだ。
 ヘナだという。インド女性には欠かせないコスメ用品だ。原料はメヘンディという樹木の葉。私たちにとっても欠かせない染料だ。
 通常は粉末で売っているが、真木千秋の手にしているヘナは、すぐ使えるように練られている。ちょうどデコレーションケーキのクリーム搾りみたいなものだ。これを使ってインドの女たちは手足に装飾を施す。「展示会に来てくれた人に私がコレで絵を描いてあげよう」…とか言っているが、さてどうなるか。

 田舎の店だから、デリーあたりの都市ではもはや見られないようなものがいろいろある。
 勢い余って店の中まで乱入する真木千秋。(左中写真)
 小間物があちこちに埋まっている。
 今手にしているのは、インドのクレヨン。
 店主のおじさんもいちおう好意的に対応してくれている。
 店内はインドっぽくカラフルだ。

 奮闘数十分の末、ゲットした戦利品の数々…可愛らしい色鉛筆、消しゴム、鉛筆削りや定規、明晩、ヒング、輪ゴム、木綿糸、ディア(灯火)用素焼きの器、リサイクル石けん、ここにはちょっと書けない代物などなど、天竺みやげ合わせて二十点ほど。どれもマトモな日本商社ならぜったい輸入しないような(売価が安すぎる)ものばかりなので、興味ある人はGWに竹林まで。

 妙な買物客がいるということで、近所のインド人も寄ってくる。(左下写真)
 ラケッシュと店主が勘定をしている間、真木千秋がしゃべっているのは顔見知りのおばさん。牛を飼っていて、ラケッシュ家ではときどきこのおばさんから牛乳を買うのだ。
  この後、真木千秋はおばさんに引っぱられて、牛を見に行くことになる。
 右写真はそのおばさんと愛牛。





 

4月21日(月) 北京でお披露目

 一昨日の19日より、北京で当スタジオ展示会を開催中。
 中国での展示会は初めてだ。
 場所は、市内東城区の国子監街というちょっとお洒落な通りにあるLost & Foundというギャラリー。中国にはまだ珍しい手工芸を扱う店だ。(上写真は展示を終えた店内)。
 特に私ぱるばは幼少の頃より中国に大きな関心を抱いていたから、この展示会はちょっと嬉しかった。初中国ということもあって、素材の説明など事前の下準備に通常の百倍くらいのやりとりがあったが、別にそんなことも苦にならない。昨年11月には真木千秋ともどもギャラリーを下見し、今回は上記二名に大村恭子&ラケッシュも加わる大布陣となった。
 いずれご紹介できると思うが、ギャラリーの共同経営者である二人の中国女性・李小猫&珊珊(シャンシャン)、そしてスタッフ一同、まこと我々と同類項と言うべき人々であった。

 彼らの熱意は尋常ではなく、初日にはギャラリー内でお話会。翌日には中央美術学院(日本の東京藝大に相当)で講演会を挙行する。タイトルは「織物之道」。
 180人収容の美術学院会場は立ち見が出るほどの盛況で、日本の手仕事に対する関心の高まりが窺える。聴衆の多くは学生で、特に染織を学んでいる若者が多かった。
 映像を交えた講演と質疑応答で約二時間半。最近の日中間に漂う不穏な空気を毫も感じさせない熱気であった。左様、手に国境はないのである。
 下写真は、タッサー絹糸サンプルを見せる真木千秋。(私の額に映像が映っているのはご愛敬)。講演は日本語で、中国語通訳がつく。演壇向かって左端の通訳・張宗蘭さんは、まだお若いんだけども実は裏千家の北京代表を務める日本通。楚楚たる挙措に尋常ならざる日本語力も相俟って、いにしへの大和撫子という風情であった。

 当地で出会ういろんな人々、文物、(そして料理)…。数日の滞在の後、「新井先生の気持ちがわかってきた」とひとりごつ真木千秋であった。(師匠であるアライラマこと新井淳一氏は中国と深い縁がある)


4月22日(火) 唐土産(からみやげ)

 先日の天竺土産購入に引き続き、北京で唐土産の購入。
 いずれもゴールデンウィーク(4月29日〜5月5日)、竹林shopで開催予定のカディと夏の布展「唐天竺の旅土産」用の品々だ。
 北京展示会の合間をぬって、ギャラリーLost & Found関係者の手引きにより、市内の各所を回る。
 歴史ある広大な国の首都だけあって、各地から膨大な物資が流れ込んでいる。地元民の手引きがなければ、とても選び出せるものではない。
 社会見学も兼ね、手軽なものから骨董的なものまで、いろいろ渉猟する。


1 
L&Fの日本人スタッフまさみさんの手引きで。雲南省の古布でできた飾り靴を選ぶ。

 


2
パンダや麻雀牌に囲まれて、江西省の小さな磁器を選ぶ。猪口に最適。店主のお姉さんが差し出すのは脚付きの杯。紹興酒用だという。(残念ながらパンダは採用されず)


3
これも江西省の磁器でできたボタン。
 


4
L&F経営者の珊珊(シャンシャン)の案内で、大村恭子も加わり、山西省の漆器箱を選ぶ。百年ほど前のもの。


5
山東省の古い椅子。栢という材だそうだ。おそらくカヤ!?

 

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今回の白眉、貴州省桐族の染織品。素材は苧麻。藍は琉球藍。




 

4月24日(月) 三国協商と近所の棟梁

 「三国一の花嫁(婿)」という言葉があるが、さてその三国とは?
  正解:大和・唐・天竺
 その三国人が竹林カフェに集った記念すべきショット(上写真)。
 実は、今、展示会中の北京ギャラリーLost & Foundのオーナー二人が、今日ひょっこり竹林に現れたのだ。左端の小猫(シャオマオ)とその右隣・珊珊(シャンシャン)。我々とはつい先日まで北京で一緒してたわけだから、なんだか不思議な感じ。今日は新宿から竹林まで、二人だけで電車を乗り継いでやって来る。いくら漢字が読めるとはいえ、ご立派!! ちなみに立川は「リーチュアン」、拝島は「バイダオ」と発音していた。晴天にも恵まれ昼食をはさんでゆっくりと半日滞在。約四日ぶりの旧交を温めつつ、いろいろ将来の企画を練るのであった。来春、竹林で日中印お茶会をやろうとか。お楽しみに。
 真木千秋の右隣はスープリア。ラケッシュの妹だ。彼女についてはまた改めてお話しすることもあるだろう。

 下写真は久しぶり、森屋棟梁登場。
 実は、今、タケノコのシーズン。昨日掘ったタケノコを竹林のカマドで茹でていたところ、経年劣化により、カマドが壊れてしまったのだ。
 来週に迫るカディと夏の布展の期間中、真木千秋は草木染めに励む所存であった。カマドが壊れては仕事にならない。
 そこで森屋棟梁に相談したところ、ほどなくトラックを駆って現れる。
 荷台には陶製の古いカマドが載っかっていた。どこかの現場から貰ってきたものらしい。棟梁は古いものが好きだから、通常なら廃棄されるようなものも、貰い受けて、保持しておく。そして、必要な人がいたら、それを分かち与えるのだ。ウチもそうやっていろんなモノを棟梁から貰っている。このカマドもタダであった。そういうことが好きみたいだな、棟梁は。なかなか趣あるもので、真木千秋も気に入っていた。
 棟梁の長女は先だってオーストラリアに語学留学したはずだったが…。その後どうなったか聞くと、今はアメリカ人と結婚し、サンディエゴに住んでいるという。
 棟梁の孫がハーフかぁ…
 ともあれ、この人がインドに来たら、新工房の工事も捗るであろうなぁ。
 



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4月28日(月) 日印コシヒカリ対決

 明日からのカディと初夏の布展に向けて、キッチンではシェフのラケッシュがランチの準備に余念がない。(左写真1)
 今回のメニューは、マサラ・ドーサ。
 これは私ぱるばの大好物で、インドへ行って街のレストランで昼食を摂る際、ほとんどいつも注文するのが、このドーサなのだ。(写真右上)
 これは南インドの人気料理で、ひらたく言えば米と豆のクレープ。それを南インドカレーと各種チャツネで食べる。

 ただ、ラケッシュは北インド人。いったいどこで南インド料理を学んだのか!?
 インドと一口に言っても広い。ちょうど中国みたいなもので、東西南北、料理には大きな違いがある。
 じつはかつての職場(デリーのホテル)で、南インド人シェフのもと、ドーサを焼いていた時期があるんだそうだ。

 写真2。
 ご自分で焼いてみたい人のために、原材料のヒミツを公開。
 ドーサ本体は、米と豆二種(ウラッド豆&ひよこ豆)。この組合せが一番人気だという。配合比率は、10 : 2 : 0.5。
 ときにはウラッド豆の代わりに緑豆(ムング豆)を使って「有色ドーサ」を焼くことも。
 この三穀を一晩水に浸し、挽いてペースト状にし、鉄板の上で焼く。

 写真3
 米の種類によっても出来上がりが違う。インド米も品種はいろいろだが、その中で一番高価なのがバスマティという米。よく「インドのコシヒカリ」などと呼ばれる。写真3の下方がソレで、長粒種インディカ米の中でも、とりわけ細長い。調理するとサラッとしていて、コッテリ系のインド料理とは特に相性が良い。
 首都デリーなど北インド地方のレストランでドーサを作る際には、このバスマティが使われることも多い。すると、ドーサのできあがりも、パリッとした食感になる。

 写真上方の米がホンモノの日本コシヒカリで、私ぱるばが今日、信州の実家から持ち帰ったもの。
 コシヒカリでドーサを作ると、ややもっちりした感じのドーサに仕上がる。

 写真を拡大してみるとわかるが、米粒の形からして対照的。
 日印のコシヒカリ対決、さてどちらに軍配が!?
 ま、これは好みなんだけどね。
 ちなみに、初日はバスマティのドーサ、二日目以降はコシヒカリのドーサとなる予定。食べ比べたい人は、まず明日来ること。

 写真4
 ラケッシュの妹スープリア。
 今春、インドの高校を卒業し、先日、来日したばかり。
 とある専門学校で、一年間、日本語を学ぶのである。
 ただ、学校は今日から5月6日までゴールデンウィークの休みだという。良い学校だ。
 そこで、GW中は展示会のお手伝い。チャイ屋を担当する予定。
 日本語の学生だから、みなさんどしどし話しかけていただきたい。(今のところ英語は得意)

 写真は、芭蕉の葉を切るスープリア。
 これは西表・紅露工房から送られてきたもの。ドーサの下に敷くのだ。インドでは広く、バナナの葉が皿として使われる。(バナナと芭蕉はほぼ同じ)。
 





 

4月30日(水) 映像トークショー「Khadi & 初夏の布」

 昨日から始まったカディと初夏の布展。実はこれはサブタイトルで、本来の名称は「極薄カディといつものカディ」。
 本展にはいろいろ出し物があるのだが、隠れたアイテムのひとつに、私田中ぱるばによる映像トーク「Khadi & 初夏の布」がある。
 これは期間中毎日、午後1時半から約一時間。母屋二階で挙行。木戸銭:無料
 このトークでは、私ぱるばが昨年12月に訪れた南インド極薄カディの産地を、秘蔵動画を交えてご案内する。日本ではほとんど紹介されていないカディの原点で、これは必見!!
 そのほか、最新のganga工房の様子など、盛り沢山の内容を用意。

 であるからして、賢い「Khadi & 初夏の布」観覧法を言うなれば…
 まず開展時間の11時にあわせて到着。ゆっくりと竹林shopのカディ+初夏の布を見て、それから竹林母屋の「唐天竺の旅土産」を観覧。その間にランチを予約。12時からカフェが始まるからシェフ・ラケッシュのマサラ・ドーサを楽しむ。そして1時半前に母屋二階に入り、できるだけ前の座席に陣取る。(前の方が御利益が高い)。ショーがはねたら、竹林の庭でチャイをすする。こんな感じで過ごされると良いであろう。(ランチは午後3時までなのでショー後でもOK!)
 


 

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